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(20代の頃)

この季節になると、いろんなところから定番のクリスマスソングが流れてきます。

仕事で渋谷に日参していた頃は、駅前のスクランブル交差点を囲うように設置されている電光掲示板から流れていたのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ハッピー・クリスマス」などでした。それからクリスマスソングではないですが、TRFの「寒い夜だから」もよく流れていました。

その後、渋谷に行くこともなくなり、クリスマスとも無縁になってしまい、街中でクリスマスソングを聴くこともなくなりました。むしろ、ここ数年のクリスマスは、山に行って山の中を一人で歩いていたくらいです。

クリスマスと無縁になると、街を歩いていてもそういった年末の華やかなイベントから疎外されている自分を感じていましたが、最近は疎外感さえ感じることがなくなりました。

そんな中、スマホでラジコを聞いていたら、BOAの「メリクリ」が流れて来て、何だかわけもなく私の心の中に染み入ってきたのでした。もちろん、「メリクリ」が発売されたのは2004年の12月ですので、私が渋谷に日参していた頃よりずっとあとです。だから、渋谷の駅前の電光掲示板から流れていたのを聴いたわけではありません。

でも、何故か、BOAの歌声が、当時の私の心情をよみがえらせてくれるようなところがありました。

BOAメリクリ

「メリクリ」とはそぐわない話かも知れませんが、人生は断念の果てにあるのだ、ということをしみじみ感じてなりません。私たちはそんな切ない思い出を抱えて最後の日々を生きていくしかないのです。老いるというのは残酷なものです。

今日の朝日新聞に評論家の川本三郎氏が「思い出して生きること」という記事を寄稿していました。

朝日新聞デジタル
(寄稿)思い出して生きること 評論家・川本三郎

川本三郎氏と言えば、『朝日ジャーナル』の記者時代、取材で知り合った京浜安保共闘の活動家が起こした朝霞自衛官殺害事件を思い出します。川本氏は、事件に連座して、証拠隠滅罪で逮捕・起訴されて朝日新聞を懲戒免職になりました。その体験は、のちに『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という本で書かれていますが、朝日を辞めたあとは小説や映画や旅や散歩などとテーマにした文章を書いて、フリーで仕事をしていました。私は、『マイ・バック・ページ』以後は、永井荷風について書かれた文章などをときどき雑誌で読む程度でした。

その川本氏も既に78歳だそうです。朝日を退社したあと、当時美大生だった奥さんと結婚したのですが、その7歳年下の奥さんも2008年に癌で亡くなり、現在は荷風と同じように一人暮らしをしているそうです。「悲しみや寂しさは消えることはないが、もう慣れた」と書いていました。

そして、柳宗悦の「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」(「妹の死」)という言葉を引いて、次のように書いていました。

 悲しみや寂しさを無理に振り払うことはないのだと思う。

 家内の死のあと、保険会社の女性に言われたことがある。

 一般的に夫に死なれた妻は長生きするが、妻に先立たれた夫は長く持たない、と。だから、長生き出来ないと覚悟した。

 それでもこの14年間なんとか一人で生きている。悲しみや寂しさと共にあったからではないかと思っている。


記事では、家事が苦手なので外食ばかりしていたら、ある日、酒の席で倒れて病院に運ばれ、医者から「栄養失調です」と告げられてショックを受けたとか、おしゃれすることもなくなり洋服はもっぱらユニクロと無印良品で済ませているとか、猫が好きだったけどもう猫を飼うこともできなくなった、というようなことが書かれていました。

そして、記事は次のような文章で終わっていました。

 「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。結局は同じことなのだけれど」

 フェリーニ監督の遺作「ボイス・オブ・ムーン」(90年)の中の印象に残る言葉だが、年を取ることの良さのひとつは、「思い出」が増えることだろうか。

 ベルイマン監督「野いちご」(57年)の主人公は、いまの私と同じ78歳の老人だったが、最後、一日の旅のあと眠りにつくとき、若い頃のことを思い出しながら心を穏やかにした。

 78歳になるいま、私も入眠儀式として、亡き家内とともに猫たちと一緒に暮らしたあの穏やかな日々を思い出している。思い出は老いの身の宝物である。


川本氏がどうして、京浜安保共闘の革命戦争にシンパシーを抱いたのか、私の記憶も定かではありませんが、『マイ・バック・ページ』でもそのことは明確に書いてなかったように思います(もう一度確認しようと本棚を探したのですが、『マイ・バック・ページ』は見つかりませんでした)。言うまでもなく、京浜安保共闘は、のちに赤軍派と連合赤軍を結成して、群馬の山岳ベースでの同志殺し(連合赤軍事件)へと暴走し、日本の新左翼運動に大きな(と言うか致命的な)汚点を残したのでした。

当時、革命戦争を声高に叫んでいた新左翼の思想について、既出の『対論 1968』(集英社新書)の中で、笠井潔氏は、「“革命戦争”とは、本土決戦を日和って生き延びることで繁栄を謳歌おうかするにいたった戦後社会を破壊することだった」「本土決戦を日和って延命した親たちに、革命戦争を対置したわけです」と言っていました。

川本三郎氏の場合、取材の過程で事件に巻き込まれて、心ならずも手を貸してしまったというのが真相なのかもしれません。ただ、その一方で、「本土決戦を日和って延命した親たち」に対置した革命戦争の思想に対して、どこか”引け目”を感じていたのではないか、と思ったりもするのです。だったら、世代的にはまったくあとの世代である私にもわかるのでした。

『対論 1968』でけちょんけちょんに批判されていた白井聡氏は、『永続敗戦論』の中で、(既出ですが)本土決戦を回避した無条件降伏について、次のような歴史学者の河原宏氏の言葉を紹介していました。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


「近衛上奏文」に示されたような「革命より敗戦がまし」という無条件降伏の欺瞞。その上に築かれた虚妄の戦後民主主義。

新左翼の若者たちは、そういった戦後の「平和と民主主義」に革命戦争=暴力を対置することで、無条件降伏の欺瞞性を私たちに突き付けたのです。当時、新左翼党派の幹部であった笠井氏は、「暴力は戦術有効性ではなく、ある意味で思想や倫理の問題として受け止められた」と言っていましたが、新左翼の暴力があれほど私たちに衝撃を与えたのも、そういった暴力に内在したエートスによって、“引け目”や”負い目”を抱いたからではないか(“引け目”や”負い目”を強いられたからではないか)と思います。

でも、年を取ると、革命に対するシンパシーも切ない恋愛も一緒くたになって、「悲しみや寂しさ」をもたらすものになっていくのです。

1971年の大衆蜂起(渋谷暴動)の現場になった渋谷の駅前では、20年後、私たちは電光掲示板から流れるクリスマスソングをBGMにして、恋人と手を取り合ってデートに向かっていたのでした。あるいは、輸入雑貨の会社に勤めていた私は、人混みをかき分けて最後の追い込みに入ったクリスマスカードの納品に先を急いでいたのでした。先行世代が提示した革命戦争の「思想や倫理」は、欠片も残っていませんでした。私は、自分の仕事と恋愛のことで頭がいっぱいでした。

最近、ふと、倒れるまでどこまでも歩いて、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」と日記に書いた森鴎外のように、山の中で人知れずめいっぱい泣きたい、と思うことがあります。年甲斐もなく、しかも、突然に、BOAの「メリクリ」にしんみりとしたのも、そんな心情と関係があるのかもしれません。最後に残るのは、やはり、「悲しみや寂しさ」の思い出だけなのです。
2022.12.22 Thu l 日常・その他 l top ▲
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今回のワールドカップは、暇だったということもあったし、ABEMAが全試合を(しかも無料で)放送したということもあって、ほぼ全試合観ることができました。

結局、アルゼンチンが36年振りにワールドカップを手にすることになったのですが、実は私は延長戦の後半早々に、ゴール前のこぼれ球をメッシが入れた時点で、テレビを消してふて寝したのでした。「ニワカ」ですので、それもありなのです。

ところが、朝起きてテレビのスイッチを入れると、そのあとエンバペがPKを入れて同点に追いついて、最終的にはPK戦になってアルゼンチンが勝ったことを知ったのでした。

どうしてふて寝したのかと言えば、フランスを応援していたということもありますが、メッシが好きではないからです。小柳ルミ子が歓喜のあまり号泣したという記事が出ていましたが、私はその反対です。

メッシの背後にはアルゼンチンの汚いサッカーがあります。自分たちのラフプレーは棚にあげて、すぐ倒れて仰々しくのたうちまわり、そして、審判に文句ばかり言う。アルゼンチンのおなじみのシーンには、毎度のことながらうんざりさせられます。

オランダ戦ほどではなかったものの、アルゼンチンとフランス戦を見ても、マナーの違いは歴然としていました。手段を選ばず「勝てば官軍」という考えは、別の意味で、日本と似たものがあります。メッシは、そんなアルゼンチンのサッカーのヒーローにすぎないのです。

翌日の日本のテレビには、「神の子・メッシ」などという恥ずかしいような賛辞が飛び交い、ここはアルゼンチンかと思うくらい小柳ルミ子ばりの「勝てば官軍」の歓喜に沸いていましたが、何をか言わんやと思いました。

たしかに、メッシのキックの精度は目を見張るものがあったし、こぼれ球などに対する反応は抜きん出ていたと思います。しかし、動きは相変わらず交通整理の警察官みたいだったし、ボールが渡っても奪われるシーンも多くありました。メッシがいることで、アルゼンチンは10人半のサッカーを強いられた感じがありました。

MVPは、むしろメッシ以外のアルゼンチンの選手たちに与えるべきでしょう。彼らは、メッシを盛り上げるために、半人足りないサッカーに徹して勝ち進んで行ったのです。それはそれで凄いことです。

FIFAの不透明な金銭のやり取りや出稼ぎ労働者が置かれた劣悪な労働環境やLGBTに対する差別などに、目を向けて抗議の声をあげたのはヨーロッパの選手たちでした。そんなものは関係ない、「勝てば官軍」なんだと言って目をつぶったのは、日本をはじめ他の国の選手たちでした。

カタール大会の負の部分などどこ吹く風とばかりに、カタールのタミル首長とFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長からトロフィを渡されて満面の笑みを浮かべるメッシの姿は、全てをなかったことにするよこしまな儀式のようにしか見えませんでした。

また、アルゼンチンの優勝を自国のそれのように報道する日本のメディアは、ハイパーインフレに見舞われているアルゼンチンが、サッカーどころではない状況にあることに対しては目を背けたままです。アルゼンチンからカタールまで遠路はるばるやって来て応援しているサポーターは、インフレなどものともしない超セレブか全財産を注ぎ込んでやって来たサッカー狂かどっちかでしょう。いくらサッカーが貧者のスポーツだからと言って、その日の生活もままならず、それこそ泥棒か強盗でもしなければ腹を満たすこともできないような下層な人々はサッカーどころじゃないのです。

チェ・ゲバラとフィデル・カストロの入れ墨を入れたマラドーナは、そんな下層の虐げられた人々に常に寄り添う姿勢がありました。だから、アルゼンチンのみならずラテンアメリカの民衆の英雄ヒーローたり得たのです。しかし、メッシはアルゼンチンのサッカーのヒーローではあるけれど、マラドーナのようなサッカーを越えるカリスマ性はありません。それが決定的に違うところです。

もしマラドーナが生きていたら、今回のカタール大会に対しても、サン・ピエトロ大聖堂を訪問したときと同じように、痛烈な皮肉を浴びせたに違いありません。

一方、日本では、本田圭佑のような道化師ピエロを持て囃すことで、全てなかったことにされ、サッカー協会の思惑通り森保続投が既定路線になっているようです。小柳ルミ子が出場するのかどうか知りませんが、森保監督は大晦日の紅白歌合戦にも審査員として出演するそうなので、これで監督交代はまずないでしょう。検証など形ばかりで、いつものように「感動をありがとう!」の常套句にすべて収斂されて幕が引かれようとしているのです。

日本のサッカーはついに世界に追いついた、などと言うのは片腹痛いのです。どうして日本のサッカーには批評がないのか、批評が生まれないのか、と思います。それは、選手の選定や起用にまでスポンサーが口出しするほど、スポンサーの力が強いということもあるでしょう。でも、それはとりもなおさず、日本サッカー協会の体質に問題があるからです。批評させない、批評を許さない、目に見えない圧力があるのではないか。

高校時代にちょっとサッカーを囓っただけで”サッカーフリーク”を自称するお笑い芸人たち(ホントは吉本興業がそういったキャラクターで売り込んでいるだけでしょう)にサッカーを語らせる、バラエティ番組とみまごうばかりのサッカー専門番組。また、一緒に番組に出ているJリーグのOBたちも、所詮は協会の意向を代弁する協会の子飼いにすぎません。相撲などと同じように、如何にも日本的な”サッカー村”が既に形成されているのです。こんなカラ騒ぎでは、「ワールドカップが終わったらサッカー熱が冷める」のは当然でしょう。
2022.12.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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同じような話のくり返しですが、政府が「反撃能力」(敵基地攻撃能力)の保有を明記し、2024年度から5年間で防衛費を16兆円(1.5倍)増額して43兆円にする方針などを示した新しい安全保障関連3文書を閣議決定しました。それによって、日本の防衛政策は「歴史的な大転換」が行われたと言われています。

それを受けて週末(17・18日)、各メディアによって世論調査が行われ、その結果が報じられています。

毎日新聞の世論調査では、防衛費増額について、賛成が48%、反対が41%、わからないが10%だったそうです。

また、財源の増税については、賛成が23%、反対が69%。国債の発行については、賛成が33%、反対が52%でした。「社会保障費などほかの政策経費を削る」ことについては、賛成が20%で、反対が73%でした。

Yahoo!ニュース
毎日新聞
岸田内閣支持率25% 政権発足以降で最低 毎日新聞世論調査

一方、朝日新聞の世論調査でも、防衛費増額について、賛成が46%、反対が48%と「賛否が分かれた」そうです。「敵基地攻撃能力」の保有については、賛成56%、反対38%でした。

財源の1兆円増税については、賛成29%、反対66%で、国債の発行についても、賛成27%、反対67%でした。

朝日新聞デジタル
内閣支持率が過去最低31%、防衛費拡大は賛否割れる 朝日世論調査

これを見て、為政者たちは「じゃあどうすればいんだ?」と思ったことでしょう。防衛費増額については賛否が分かれたものの、「敵基地攻撃能力」の保有は賛成が多く、費用については増税も国債もどれも反対が大幅に上回っているのです。

ということは、防衛費増額(防衛力の拡大)に賛成しながら、増税も国債の発行も反対という回答も多くあるわけで、そういった矛盾した回答には口をあんぐりせざるを得ません。

日本は軍拡競争というルビコンの橋を渡る「防衛政策の歴史的大転換」に踏み切ったのです。安保3文書で示された2027年までの「中期防衛力整備計画」は、ホンの始まりにすぎません。常識的に考えても、装備を増やせばその維持管理費も増えるので、さらに新しい武器を揃えるとなると、その分予算を積み増ししなければなりません。1%の増税で済むはずがないのです。もちろん、毎年3兆円、私たちに向けられた予算が削られて防衛費に転用することも決まったのですが、それも増えることになるでしょう。これは、あくまで軍拡の入口にすぎないのです。

この世論調査の回答からも、自分たちは関係ない、汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいという、国民の本音が垣間見えるような気がします。為政者ならずとも「勝手なもんだ」と言いたくなります。そんな勝手が通用するはずがないのです。

先の戦争では、国民は、東條英機の自宅に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて送り、戦争を熱望したのです。そのため、東條英機らは清水の舞台から飛び降りるつもりで開戦を決断したのです。ところが、敗戦になった途端、国民は、自分たちは「軍部に騙された」「被害者だ」と言い始めて、一夜にして民主主義者や社会主義者に変身したのです。

私は、その話を想起せざるを得ません。

だったら、徴兵制と大増税で、傍観者ではなく当事者であることを嫌というほど思い知ればいいのだと思います。「敵基地攻撃能力」(先制攻撃)の保有によって、中国や北朝鮮からの挑発も今後さらに激しくなってくるでしょう。一触即発までエスカレートするかもしれません。そうなれば、当然徴兵制復活の声も出て来るに違いありません。「中国が」「ロシアが」「韓国が」と言っている若者たちも、徴兵されて「愛国」がなんたるかを身を持って体験すればいいのだと思います。

一方で、徴兵制について、次のような捉え方もあります。たまたま出たばかりの笠井潔と絓(すが)秀実の対談集(聞き手・外山恒一)『対論 1968』(集英社新書)を読んでいたら、連合赤軍の同志殺しについて、笠井潔が次のように語っているのが目に止まりました。

笠井 (略)赤軍派の前乃園紀男(花園紀男)の言葉があるよね。「狭いけど千尋の谷があって、普通の脚力があれば、思い切って跳べば跳べる程度の距離なんだから、跳べばよかったのに、いざ千尋の谷を目の前にすると体がすくんで、とりあえず跳ぶ訓練をしようと言い出し、総括の連続で自滅していった」、つまり「そもそも”訓練”なんか必要なかった。単に”跳んで”いれば連合赤軍みたいなことは起きなかった」といった趣旨の。まったくの正論ですが、その上で”投石”と”銃撃戦”の間に”千尋の谷”が存在した理由を考えなければいけない。ベトナム戦争の戦時中だったアメリカはもちろん、イタリアやドイツにも当時は徴兵制があったし、学生の多くは徴兵制は免除されたにしても、同年代に軍隊経験のある友達はいくらでもいた。
 徴兵制の有無は大きいですよ。


若者が軍隊経験を持つ=暴力を身に付けることによって、その暴力が政治の手段に転化し得る可能性があるということです。徴兵制は、”政治暴力”とそれをコントロールするすべを学ぶ絶好の機会チャンスにもなるのです。もちろん、「千尋の谷」を跳ぶ必要もなくなります。

徴兵制というのは、日常や政治に暴力を呼び込むということであり、国家権力にとっても両刃の剣でもあるのです。最近では、安倍晋三元首相銃撃事件が好例です。山上容疑者が自衛隊で暴力の訓練を受けてなければ、少なくとも銃殺するという発想を持つことはなかったでしょう。

とまれ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と思っているなら、みんなで戦争への道に突き進めばいいのです。加速主義というのは、平たく言えば、そういう話でしょう。このどうしようもない国民の意識は、加速主義による「創造的破壊」によってしか直しようがないのではないかと思います。

現在、世界を覆っている未曽有の資源インフレに示されているように、資本主義が臨界点に達しようとしているのはたしかで、政治と経済が共振して資本主義の危機がより深化しているのは否定しようがない気がします。

アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界は間違いなく多極化する、と前からしつこいほど言ってきましたが、アメリカの凋落と国内の分断、ロシアや中国の台頭など、ますますそれがはっきりしてきたのです。ロシアがあれほどの蛮行を行っても、西側のメディアが報じるほどロシアは世界で孤立しているわけではないのです。

ウクライナが可哀そうと言っても、従来のようにアメリカが直接軍事介入を行うことはできないのです。ウクライナがNATO加盟国ではないからとか、核戦争を回避するためだとか言われていますが、しかし、ベトナム戦争のときでもソ連は核を持っていました。でも、アメリカは直接軍事介入したのです(できたのです)。

戦後、アメリカは戦争して一度も勝ったことがないと言われていますが、たしかに考えてみればそうです。それでいい加減トラウマができて、国内世論も軍事介入することに反対の声が大きくなったということもあるかもしれません。しかし、それ以上に、アメリカがもはや他国に軍事介入するほどの力がなくなったということの方が大きいのではないか。言うなれば、毛沢東が言った「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」ことが現実になった、と言っていいかもしれません。今回の日本の「防衛政策の歴史的大転換」もその脈絡で見るべきでしょう。
2022.12.19 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(2018年大船山)

先日、ユーチューブを観ていたら、ある女性ユーチューバーが祖母山や傾山に登っている動画がアップされていました。

彼女は、大分県と宮崎県にまたがる祖母山・傾山・大崩山が、ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に指定されているので、そのPR活動のために動画を依頼されて訪れたようです。

ちなみに、ユネスコエコパークとは、次のようなものです。

ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)は、生物多様性の保護を目的に、ユネスコ人間と生物圏(MAB)計画(1971年に開始した、自然及び天然資源の持続可能な利用と保護に関する科学的研究を行う政府間共同事業)の一環として1976年に開始されました。
ユネスコエコパークは、豊かな生態系を有し、地域の自然資源を活用した持続可能な経済活動を進めるモデル地域です。(認定地域数:134か国738地域。うち国内は10地域。)※2022年6月現在
世界自然遺産が、顕著な普遍的価値を有する自然を厳格に保護することを主目的とするのに対し、ユネスコエコパークは自然保護と地域の人々の生活(人間の干渉を含む生態系の保全と経済社会活動)とが両立した持続的な発展を目指しています。

文部科学省
生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)


国内で指定されているのは、以下の10ヶ所です。

白山
大台ヶ原・大峯山・大杉谷
志賀高原
屋久島・口永良部島
綾(宮崎県綾町)
只見
南アルプス
祖母・傾・大崩
みなかみ(群馬県みなかみ町)
甲武信

私は、祖母・傾山が大崩山とともに、ユネスコエコパークに指定されていることはまったく知りませんでした。

前に何度も書きましたが、私はくじゅう(久住)連山の麓にある温泉町で生まれました。祖母・傾山の登山口は、山をはさんだ南側の町にあります。山をはさんで北側にあるのが湯布院です。

北側の湯布院には久留米と大分を結ぶ久大線が走っており、南側には熊本と大分を結ぶ豊肥線が走っています。しかし、真ん中にある私の町には鉄道が走っていません。そのため、私の田舎は由布院とは対極にあるようなひなびた温泉地でした。

最寄り駅は、西側の山をひとつ越えた隣町にあるのですが、隣町とは平成の大合併によって同じ市になったのでした。ただ、大昔は同じ郡だったので、言うなれば離婚した夫婦が復縁したようなものです。その最寄り駅から祖母・傾山の登山口に行く登山バスが運行されているのですが、それを知ったのも最近でした。ユネスコエコパークに指定されたのは2017年だそうなので、指定を受けて運行されるようになったのかもしれません。

ただ、私たちの田舎の山はあくまで久住連山(大船山)で、私たちの田舎から祖母・傾山に登る人はほとんどいませんでした。そもそも昔は登山口に行く交通手段もなかったのです。

これも何度も書いていますが、私は若い頃勤めていた会社の関係で、山を越えた南側の町(現在は合併して市)の営業所に5年間勤務していたことがあるのですが、祖母・傾山に登るならそっちの方が全然近いのです。大分県側の登山口も南側の町にあります。山開きのときもその町の人たちは祖母山に登っていました。ただ、祖母山の山頂が私たちの市に帰属しているので、そういった関係から私たちの市の最寄り駅からバスが運行されることになったのだと思います。

つまり、私たちの市には、九州の屋根を呼ばれる久住連山と祖母山があるのです。傾山は私が営業所に勤務していた南側の市に帰属しています。祖母山と傾山の大分県側の登山口も、その市にあります。

祖母山には、営業所に勤務していたとき、よく行っていた喫茶店で知り合った地元の登山グループと一緒に登ったことがあります。私たちは、「祖母・傾山」というように一括りした言い方をしていましたが、ただ、大半の人たちは祖母山に登っていました。動画を観ると、たしかに傾山は距離も長いし登山道も難度が高いみたいなので、大分県側では敬遠されていたのかもしれません。宮崎側へ行けば山行時間の短いお手軽なコースがあるそうです。

昔、傾山で野営していた女性ハイカーが、九州では絶滅したはずの”熊”を見たと言って話題になったことがありましたが、そのときも大分側で遭遇したと言われていました。”熊”はともかく、あんなに距離が長いと野営したくなる気持もわかるような気がします。

祖母山や傾山の登山口がある町も、私は仕事で担当していた地区だったのでよく知っています。ただ、動画に出ていた神原登山口が立派に整備されていたのにはびっくりしました。昔はあんなトイレも駐車場もありませんでした。山を越えた宮崎県側には、地元の教師たちによってヒ素による公害が告発された土呂久鉱山があり、私も車で峠越えを試みたことがありましたが、道が荒れていて途中で断念したことを覚えています。

傾山に登っている途中に出てきた指導標(道案内)に「上畑」という地名がありましたが、そういった地名を見ただけでなつかしい気持になるのでした。

また、ユーチューバーが休憩中に食べていた地元のお菓子も、先日、田舎の友人が上京した際にお土産に貰ったばかりだったので、わけもなく嬉しくなりました。小さい頃からよく食べていたお菓子で、父親の葬儀で帰省した際、香典返しにそのお菓子を東京の会社に送ったこともありました。

これも何度も書いていますが、私は実家にいたのは中学までで、高校は親元を離れて街の学校に行きました。それで、休みで帰省して再び列車で下宿先に向かう際、そのお菓子を買うために店に行ったら、店のおばさんから「どこの高校?」と訊かれたのです。それで、「○○の××高校です」と答えたら、「エー、そんな遠くの学校に行っているんだ?」とびっくりされたことがありました。何故かそのときのことを今でも覚えていて、先日、友人にその話をしたら、「ああ、△△のおばちゃんか。もうとっくに死んだよ」と言っていました。

ユーチューバーは、登山の前日と翌日に最寄り駅がある町に宿泊したようで、町の観光名所やうら寂れた通りの様子が動画で紹介されていました。旅の宿でもそうで、まったくの山間僻地より中途半端な田舎町の方が妙に旅愁をそそられるところがあります。山間の小さな城下町だったので、地元の人間にはよけい栄枯盛衰のわびしさが偲ばれるのでした。

合併した現在でも人口2万人足らずですが、城下町だったので文化資本は豊かで、昔は著名な日本画家や軍人や学者や作家などを輩出し、私が若い頃勤めていた会社もそうでしたが、町の出身者で東京の上場企業の社長になった人も何人かいます。しかし、今はその面影をさがすことはできません。

年を取ると、あれほど嫌っていた故郷なのに、やたら昔のことが思い出され、望郷の念を抱くようになるものです。しかし、坂口安吾が、「ふるさとに寄する賛歌」で「夢の総量は空気であった」と書いていたように、いつの間にか自分がふるさとから疎外され「エトランゼ」になっていたことを思い知らされるのでした。それはむごいほど哀しくせつない気持です。

脚色されたテレビの番組と違って個人の動画なので、動画から伝わる素朴でゆったりした空気感のようなものが、私の心情によけい染み入るところがありました。ユーチューブでそんな気持になったのも初めてでした。


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防衛費の増額分の財源をめぐって、自民党の税制調査会が紛糾しているというニュースがありました。

2023年4月から2027年3月までの次の「中期防衛力整備計画」では、防衛費が今(2019年4月~2023年3月)の27兆円から43兆円へと大幅に増額される予定で、そのためには毎年あらたに4兆円の財源が必要になると言われています。そのうち3兆円は他の予算を削ったり余剰金を使ったりして賄う予定だけど、1兆円の財源が不足すると言うのです。税制調査会では、その財源をどうするか、増税するかどうかという議論が行われたのでした。

岸田首相が表明したのが、復興特別取得税を充てるという案です。復興特別所得税は、2011年の東日本大震災の復興費用の財源を確保するために創設した特別税で、2013年から2037年までの25年間、個人が払う所得税額の2.1%分を加算するようになっています。岸田首相は、2024年以降に2.1%のうち1%を防衛費に充てて、さらに期間も2037年から20年(14年という説もある)延長するという案をあきらかにしたのでした。

しかし、昨日(14日)開かれた自民党の税制調査会では、この岸田首相の案に対して異論が噴出、結論を今日以降に持ち越したのでした。岸田首相の増税案に対して、強硬に反対しているのは安倍元首相に近いと言われる清話会の議員たちです。彼らが主張しているのは、萩生田政調会長に代表されるように、増税ではなく国債を発行するという案です。

ここでも、旧宏池会+財務省VS清話会という、緊縮財政派と積極財政派の自民党内の対立が表面化しているのでした。そして、その先に、消費税増税を視野に入れた旧宏池会+財務省+立憲民主党など野党の増税翼賛体制が構想されている、というのが鮫島浩氏の見立てですが、たしかに税制調査会でも、岸田首相の復興所得税を充てる案は「財務省の陰謀だ」という声が出たそうです。

一方、税制調査会の幹部たちは、法人税・所得税・たばこ税3税を増税して充てるという、復興所得税を転用した案で大筋合意し、それを叩き台として午後の会合に提案したのですが、やはり異論が噴出して合意に至らなかったということでした。

もっとも、1兆円が不足するというのも、机上の計算にすぎません。政府は3兆円強は歳出改革等で賄うと言ってますが、ホントに歳出改革が予定どおりいくのか保障はありません。

いづれにしても、防衛費の大幅増額は既定路線になっており、現在、議論されているのは財源の問題なのです。防衛費の大幅増額がホントに必要なのか、という手前の議論ではないのです。

政府は、”反撃能力”の保有に伴い、敵基地攻撃の発動要件についても検討に入ったそうです。でも、敵基地攻撃に転換すれば、逆に先制攻撃を含めた反撃の標的になるでしょう。

忘れてはならないのは、防衛費増額がアメリカの要請に基づくものだということです。バイデン大統領が軍需産業とつながりが深いのは有名な話ですが、しかし、アフガンからの惨めな撤退に象徴されるように、アメリカはもはや「世界の警察官」ではなくなったのです。そこでバイデンが新たに編み出したのが”ウクライナ方式”です。今の中国による台湾侵攻の危機は、そのアジア版とも言えるものです。

防衛費(軍事予算)がGDPの2%を超えると、日本はアメリカ・中国につづく軍事大国になるそうですが、バイデン政権は、そうやって日本に世界でトップクラスの軍備増強を求め、大量の武器を売りつけようとしているのです。それが向こう5年間で16兆円増額するという、途方もない整備計画につながっているのでした。

”反撃能力”というのは言葉の綾で、本来は先制攻撃能力と言うべきです。日本が先制攻撃能力を保有すれば、専守防衛という憲法の理念に反するだけでなく、周辺国との間に軍事的緊張を高めることになります。にもかかわらず、「防衛政策の大転換」に踏み切ったのは、アメリカのトマホークを買うためだという話もあり、さもありなんと思いました。まさに対米従属が日本の国是だと言われる所以です。

軍備増強に関連して、次のような記事もありました。

47NEWS
共同通信
防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導

 防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。


下のようなイメージした図もありました。

防衛省世論誘導

前に、防衛省の機関である防衛研究所の研究員が、連日テレビに出演して、ロシアのウクライナ侵攻の解説を行っているのは、戦時の言葉を流布するプロパガンダの怖れがあるのではないか、と書いたことがありましたが、彼ら戦争屋は、まるで火事場泥棒のように、ヤフコメやツイッターやユーチューブを舞台に、AIを利用した挙国一致の世論作りを画策しているのです。文字通り、デジタル・ファシズムを地で行く企みと言っていいでしょう。「中国が」「ロシアが」と言いながら、中国やロシアがやっていることと同じものを志向しているのです。敵・味方を峻別しながら、中身は双面のヤヌスのように同じで、だからいっそう敵・味方を暴力に峻別したがるという、戦争屋=全体主義者にありがちな二枚舌が露呈されているように思えてなりません。

もっともその前に、メディアの「中国が攻めて来る」という報道が功を奏したのか、読売新聞が今月4日に実施した世論調査では、防衛費増額に対して、賛成が51%で反対の42%を上回ったという結果が出ていました。さすが「報道の自由度ランキング」71位(2022年度)の国の面目躍如たるものがあると思いました。

読売新聞オンライン
防衛費増額「賛成」51%、原発延長「賛成」51%…読売世論調査

また、立憲民主党も、軍備増強の流れに掉さすように、近々「反撃能力の一部」を容認する方針だ、という記事もありました。

47NEWS
共同通信
反撃能力保有、立民が一部容認へ 談話案判明、着手段階の一撃否定

 政府が安全保障関連3文書を16日にも閣議決定する際、立憲民主党が発表する談話の原案が判明した。敵の射程圏外から攻撃可能な「スタンド・オフ・ミサイル」について「防衛上容認せざるを得ない」と明記し、反撃能力の保有を一部認めた。


まさに野党ならざる野党の正体見たり枯れ尾花といった感じです。

でも、防衛費(国防費)の増大が国家にとって大きな負担になり、経済が疲弊して国民生活が犠牲を強いられるようになるのは、世の東西を問わず歴史が立証していることです。

厚生労働省が発表した2018年の貧困線(国民の等価可処分所得の中央値の半分の額)は、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円となっています。貧困線以下で生活している人の割合、つまり、相対的貧困率は15.4%です。日本の人口の15.4%は約1800万人です。

一般会計予算の中でいちばん多いのは、社会保障関係費で、40兆円近くあり全体の35%近くを占めていますので、防衛費を捻出するために、社会保障関係費が削減の対象になる可能性は大きいでしょう。前に書いた生活保護の捕捉率を見てもわかるとおり、日本は社会保障後進国なのですが、防衛力強化と引き換えに益々社会保障が後退する恐れがあるのです。

ましてや、日本は韓国にもぬかれ、経済的にアジアでも存在感が薄らいでいく一方の下り坂にある国なのです。戦争になれば、さらに最大の貿易相手国を失うことになるのです。そんな国に戦争する余力があるとはとても思えません。

「中国と戦争するぞ、負けないぞ」と威勢のいいことを言っても、所詮はやせ我慢にすぎないのです。中国が日本に対して、「あまり調子に乗らない方が身のためだぞ」というような、やけに上から目線でものを言うのも、とっくにそれを見透かされているからでしょう。

軍備増強によって、国力が削がれ益々没落していくのが目に見えているのに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな同調圧力による「集団極化現象」によって、とうとう軍拡というルビコンの橋を渡るまでエスカレートしていったのでした。いわゆる軽武装経済重点主義で、戦後の経済成長を手に入れたことなどすっかり忘れて、再び戦争の亡霊に取り憑かれているのです。その先に待っているのは、軍拡競争という無間地獄です。

装備は分割で購入するそうなので、装備を増やせばローン代も含めて維持管理費も増えるので、新たな装備を買おうとすれば、さらに予算を積み増ししなければなりません。そうやって経済的な負担が際限もなく膨らんでいくのです。

まだ発売になっていませんが(近日発売)、安倍元首相を「お父さま」と慕うネトウヨが安倍元首相を殺害するという、「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」として話題になった奇書『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の帯に、「本当の本音を言うと、みんな戦争がやりたいのだ」という惹句がありましたが、防衛費増額に対する国民の反応を見るとそうかもしれないと思うことがあります。

国民の大方の反応は、防衛力強化は必要だけど、増税は嫌だという勝手なものです。もちろん、自分たちが銃を持って戦う気なんてさらさらありません。汚れ仕事は自衛隊にやらせればいいと思っているのです。

しかし、いくら軍事費を増やしても自衛隊だけでは戦争は完遂できないので、いづれ幅広い予備役の制度(つまり徴兵制)が必要になるでしょう。だから、防衛省も世論工作の必要を感じているのだと思います。

仮に百歩譲って軍備増強が抑止力になるという説に立っても、装備だけでは片手落ちでマンパワーが重要であるのは言うまでもありません。現在の日本の兵士数は26万人弱で、世界で24番目の規模です。装備とともに訓練された兵士も増やさなければ、画竜点睛を欠くことになるでしょう。このまま行けば当然、徴兵制の議論も俎上にのぼってくるはずです。

白井聡氏の『永続敗戦論』の中に、家畜人ヤプーの喩えが出ていましたが、たしかに、日本の指導者たちは、アメリカの足下に跪き、恍惚の表情を浮かべながら上目遣いでご主人様を仰ぎ見る家畜人ヤプーのようです。一方、国民は、所詮は他人事とタカを括り、対米従属愛国主義の被虐プレイを観客席から高みの見学をしてやんやの喝采を送るだけです。今回の軍備増強=「防衛政策の大転換」に対しては、そんな世も末のような自滅する日本のイメージしか持てないのです。


追記:(12月16日)
上記の『中野正彦の昭和九十二年』は、発売日前日に「ヘイト本だ」という社内外の懸念の声を受けて急遽発売中止が決定。版元が既に搬入していた本を書店から回収するという事態に陥り、購入が難しくなりました。でも、「ヘイト本」であるかどうかを判断するのは読者でしょう。
2022.12.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
国会議事堂
(public domain)


世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済を目的とした「救済法」(法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律)と改正消費者契約法が昨日(10日)、参院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立しました。採決では、自民・公明の与党と、立憲民主・日本維新の会・国民民主が賛成し、共産とれいわ新選組は反対したそうです。

でも、前も書いたように、この法律が今国会で成立するのは、与野党の間では合意済みと言われていました。会期末ギリギリに成立したのも筋書きどおりなのかもしれません。

この法律に対しては、宗教二世や被害対策の弁護団などからは、「ザル法」「ほとんど役に立たない」という声がありました。また、野党も当初は同じようなことを言っていました。

実際に今回のような法律では、法の不遡及の原則により、「救済」の対象はあくまでこれから発生する「被害」に対してであって、過去の「被害」は対象外なのです。また、「被害」の認定にしても、法案では「配慮義務」という曖昧な文言が使われているだけです。「禁止」という明確な言葉はないのです。それでは「被害」の認定が難しい「ザル法」で、実効性に乏しいと言われても仕方ないでしょう。

ところが、国会の会期末が近づくと、立憲民主党など野党は、「充分ではないがないよりまし」「一定の抑止効果はある」などと言い出して、このチャンスを逃すと被害者救済は遠のくと言わんばかりの口調に変わったのでした。すると、救済を訴えてきた宗教二世からも、「ザル法」などという言葉は影をひそめ、法案の成立は「奇跡に近い」、尽力してくれた与野党に「感謝する」というような発言が飛び出したのです。私は、その発言にびっくりしました。と同時に、そう言わざるを得ない宗教二世たちの心情を考えると、何だかせつない気持にならざるを得ませんでした。

9日には、宗教二世と全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士が、参院の消費者問題特別委員会に参考人招致され、意見陳述したのですが、そのときは、国会の会期は延長せず、翌日10日の参院本会議で採決し成立させることが既に決定していたのです。何のことはない、参考人招致は、形式的な儀式にすぎなかったのです。

国会での審議は僅か5日でした。立憲民主党は、みずからの主張と政府与党が提出した法案とは「大きな隔たりがある」と言いながら、会期延長を求めるわけではなく、会期末の成立に合意したのです。

「救済法」には2年後を目処に見直すという付帯事項が入っており、岸田首相も、賛成した野党も、盛んにそれを強調しています。何だか法律が「役に立たない」ことを暗に認めているんじゃないかと思ってしまいます。宗教二世は、「被害者を忘れずに議論を続けてほしい」と言っていましたが、そういった言葉も空しく響くばかりです。

宗教二世たちは、結局、与野党合作の猿芝居に振りまわされただけのような気がしてなりません。彼らの切実な訴えより”国対政治”が優先される、政治の冷酷さをあらためて考えざるを得ないのでした。

ジャーナリストの片岡亮氏は、『紙の爆弾』(1月号)の「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」という記事で、「救済法」の国会論議に関連して、自民党議員の若手秘書の次のような発言を紹介していました。

 自民党の若手秘書は「議員はみんな、公明党がいるから宗教法人法には手をつけられないと口を揃えている」と話す。
「それこそ自公政権自体が政教分離違反ですよね。本来、公明党は統一教会との違いをハッキリ示すべきなのに、ただ規制強化に反対しているのですから、これでは同じ穴のムジナ」
 旧統一教会の問題とは、言ってしまえば、社会的に問題のある団体があった場合、政治がどう対処するのか、ということだ。その方法には大別して「攻めと守りがある」と、同秘書は続ける。
「攻めとは悪質な宗教団体の取り締まりです。統一教会であれば解散で、宗教団体という認定を外すこと。法人格や税優遇を取り消せます。公的な認定がなくなれば、自然と信者の脱会も促せるでしょう。実際、それを提案して、脱会信者の専門サポート体制も作ろうとした人は自民党にもいましたが、大きな反発を受けています。一方、守りは被害者の保護。契約法改正や献金規制で、被害を食い止めること。ただ、あくまで被害があった場合の救済措置なので、被害自体をなくす作業ではありません。いま自民党は教団を繋がっている議員ばかりなので、攻めには反対が多く、守りだけで世間の批判を収めようという流れになっています」
(『紙の爆弾』1月号・片岡亮「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」)


記事のタイトルにあるように、自民党の政治家たちと旧統一教会との関係は今も続いている、と指摘する声も多くあります。政権の中枢に浸透するくらいのズブズブの関係だったのですから、そう簡単に手が切れるわけがないのです。今回の法案の与党側の調整役だったのは、旧統一教会の信者から「家族も同然」と言われ、信者の集まりで「一緒に日本を神様の国にしましょう」と挨拶したあの萩生田光一自民党政調会長でした。文字通り泥棒に縄をわせるようなもので、悪い冗談みたいな話です。

また、片岡氏は、同じ記事で、「ステルス信者」の問題も取り上げていました。「ステルス信者」というのは、言うなれば隠れキリスタンのようなもので、「信者であることを隠して信仰し、特定の政治家を応援」している信者たちのことです。と言うのも、旧統一教会には正式な入信制度がないそうで、そのため、他の教団と違って「組織が非常に曖昧」で、信者数も「不明瞭」なのだとか。報道されているように、関連団体が無数に存在するのもそれ故です。「ステルス信者」は、「彼らが隠密に政治や行政に取り入るための方法」なのですが、今回の騒動で、ステルス、つまり、信者であることを隠す行為がいっそう「加速」されるようになった、と片岡氏は書いていました。カルトは何でもありなので、今までも脱会運動を行っていたのが実は教団寄りの人物だったということもありましたが、今後偽装脱会も多くなるかもしれません。

今の流れから行けば、宗教法人法に基づいて解散命令の請求が行われるのは間違いないでしょう。それと今回の「救済法」の二点セットで、旧統一教会の問題の幕引きがはかられる可能性が大です。実際に、メディアの報道も目立って減っており、彼らの関心もこのニ点に絞られています。

ただ、教団の抵抗で最高裁まで審理が持ち込まれるのは間違いないので、最終的な決定が出るまでかなり時間がかかるでしょう。それまで、「他人ひとの噂も四十九日」のこの国の世論が関心を持ち続けることができるかですが、今のメディアの様子から見てもほとんど期待はできないでしょう。下手すれば、姿かたちを変えて、再び(三度)ゾンビのように復活する可能性だってあるかもしれません。

旧統一教会の問題は、「信教の自由」や「政教分離」のあり方などを根本から問い直すいい機会だったのですが、結局、それらの問題も脇に追いやられたまま、まるで臭いものに蓋をするようにピリオドが打たれようとしているのです。

泥棒に縄をわせるやり方もそうですが、”鶴タブー”をそのままにして旧統一教会の問題を論じること自体、ものごとの本質から目を背けたその場凌ぎの誤魔化しでしかないのです。


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2022.12.11 Sun l 旧統一教会 l top ▲
サッカーボール


スペインが、決勝トーナメントの初戦で、PK戦の末モロッコに敗れましたが、モロッコ戦のスペインは日本戦のときと同じでした。スペインは決勝トーナメントを見据えて日本戦で手をぬいた、というような話がありましたが、それは誇大妄想だったのです。そもそもスペインには、そんな“強者の余裕”などはな 、、からなかったのです。あれがスペインの今の力だったのです。

日本のメディアでは、「日本サッカーの歴史が変わった」などと「勝てば官軍」のバカ騒ぎが続いていますが、そんな中で、まるで自画自賛の浮かれた空気に冷水を浴びせるように、セルジオ越後氏が下記のような感想を述べていました。

日刊スポーツ
【セルジオ越後】早い段階からブラボーブラボー…弱いチームが快進撃続けた時の典型的なパターン

もうブラボーって言えなくなったな。早い段階から日本はブラボー、ブラボーと騒ぎすぎた。喜ぶのはいいことだが、日本国内も現地カタールでも、すべてを得たような騒ぎだった。弱いチームが快進撃を続けた時の典型的なパターン。結局、世界の中で日本の立ち位置はまだ低いということだね。決勝トーナメントに入ってからが本当の勝負なのに、その前に満足したのかな。クリスマスの前に騒ぎすぎて、いざクリスマスの時は酔っぱらいすぎて疲れてしまったって感じだな。


攻め手がなく、みんな守り疲れて、スイッチを入れるタイミングでは足が動かなかった。ロングボールを前線に蹴り込んで、何とかしてくれ、と言われても何とかならない。


カウンターに頼るのが弱いチームの常套戦術であるのは、「ニワカ」の私でも知っています。私もたまたま観ていて、思わず膝を叩いたのですが、内田篤人も、クロアチア戦のあとの「報道ステーション」で、選手の声として、次のように伝えていました。

「このスタイルがこの先の日本の方向性を決めるスタイルなのかな。僕たちがやりたいサッカーって何なのかな。これは強いチームに対してしっかり守ってカウンター。それは日本のやりたいことなのかなっていう声も選手の中では聞こえてきました」(ディリースポーツの記事より)


ホントに日本のサッカーは進歩したのか。11月9日の国内組の出発の際は、数十人が見送っただけだったのに、今日は約650人のファンと約190人の報道陣が、成田空港の到着ロビーに出迎えたそうです。こんな安直な手のひら返しの現実を前にして、「日本サッカーの歴史が変わった」と言われても鼻白むしかありません。

終わりよければ全てよしで、森保監督の続投も取り沙汰されていますが、何だかサッカーまでが野球や相撲と同じパラダイス鎖国のスポーツになりつつあるような気がしてなりません。日本では、テストマッチや選手の起用などにスポンサーが関与することが前から指摘され、問題視されていました。日本のサッカーが世界のレベルに近づくためには、まず日本サッカー協会が前時代的な”ボス支配”から脱皮することが必要なのです。そういった改革を求める声も、いつの間にかどこかに飛んで行った感じです。

「勇気をもらった」「元気をもらった」「感動をありがとう」などという、お馴染みの情緒的な言葉によって思考停止に陥り全てをチャラにする没論理的な精算主義は、日本人お得意の精神的な習性とも言えるものですが、あにはからんや、森保監督の「和」を尊ぶ対話路線が「歴史を変えた」みたいな話が出て、この4年間の検証はそれで済まされるような空気さえあります。そうやって全員野球ならぬ”全員サッカー”の日本的美徳が言挙げされ、結局また元の木阿弥になってしまうのかもしれません。

ワールドカップなんて、国内リーグの「おまけ」「お祭り」みたいなものと言う人もいるくらいで、たしかに海外の強豪国のサッカーは個々の選手のパフォーマンスの競演みたいな感じがあります。一方、日本は「和」を重んじる”全員サッカー”で、選手の個性があまり表に出て来ません。「オレが」「オレが」というのは嫌われ、「出る杭は打たれる」のが日本の精神的風土ですが、しかし、(遊びでも実際にサッカーをするとわかりますが)サッカーというのは「オレが」「オレが」のスポーツなのです。そういった精神性もサッカー選手にとって大事な要素であるのはたしかでしょう。たまたまかもしれませんが、今大会で唯一個性が出ていたのは三苫薫くらいです。だから、彼は高い評価を得たのでしょう。

いつまで「日本人の魂」や「日本人の誇り」でサッカーを語るつもりなのか、と言いたくなります。スポーツライターの杉山茂樹氏いわく、「海外にも、適任者はたくさんいるが、こう言っては何だが、そのキャリアを捨て日本代表監督になろうとする人物はけっして多くない」(Web Sportiva)そうなので、外国人監督を招聘するのも大変なのかもしれませんが、子飼いの日本人監督だったら誰がなっても同じだと思います。彼らのサッカーは、丸山眞男が言う「番頭政治」みたいなものです。日本の選手たちがせっかくこれだけ海外のクラブでプレーして、世界レベルのサッカーで揉まれて、それなりのパーフォーマンスを身に付けているにもかかわらず、内田篤人が言うように、自己を犠牲にした守りに徹した上に、ロングボールでカウンターではあまりに芸がなさすぎる、と「ニワカ」は思うのでした。
2022.12.07 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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自民党へすり寄る立民と国民民主。立憲民主党は、国民民主党や連合に先を越されて焦っているのかもしれません。

野田佳彦のようなゾンビが未だに徘徊している立憲民主党は、国民民主党とどう違うのか、それを説明できる人なんていないでしょう。

浅田彰は、田中康夫との対談で、野田佳彦の安倍追悼演説は「噴飯ものだった」と、次のようにこき下ろしていました。

現代ビジネス
「憂国呆談」第5回 Part1
安倍追悼演説で野田がダメダメだった理由を、改めて明かそう《田中康夫・浅田彰》

浅田 (略)「再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」とか言って自分で感動してたけど、安倍との最後の党首討論では一方的に押しまくられて衆議院解散・総選挙に追い込まれ、結果、安倍自民党に政権を譲り渡しただけ。あの醜態のどこが「言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合う真剣勝負」なの?


一方、田中康夫は、「追悼演説はとても素晴らしかった」と礼賛した『週刊朝日』の室井佑月のコラムを、次のようにやり玉に上げていました。

田中 (略)「『勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん』という言葉に、微(かす)かに勝てる兆しが見えた気がした。野党というか、野田さんはまだ諦めていない。野党を応援しているあたしも、『よっしゃまだまだこれから』という気分になった。一部、野党の偉い人が、野田さんの演説に対し『とても男性のホモソーシャル的な演説だと思った』といっていたが、足を引っ張るのはやめていただきたい」との文章には絶句したよ。


翼賛体制へと突き進む野党ならざる野党の醜悪は、政党の問題だけではないのです。彼らに随伴する「野党共闘」の市民団体も同じです。

田中のやり玉は続きます。

田中 (略)それにしても、「れいわとかあんなもん野党じゃない」と大宮駅前の街頭演説で絶叫する動画が話題となった枝野幸男は、「総選挙で時限的とは言え『消費税減税』を言ったのは政治的に間違いだった。2度と『減税』は言わない」と自分のYouTubeで平然と“広言”した(略)。
それを山口二郎チルドレンのような存在の千葉商科大学の田中信一郎が、「野党全体に立ち位置と戦略の再考を突き付けた。その意味を各党が受け止められるかどうかで、今後の日本が変わる」と牽強付会(けんきょうふかい)な見出しを付けて朝日新聞の「論座」で、「自民党とは異なる経済認識に基づく、経済政策の選択肢を明確に打ち出す」 「枝野発言は『個人重視・支え合い』の国家方針に拠る」と語るに至っては、イヤハヤだ。


私も、「論座」の田中信一郎氏の投稿を読みましたが、「語るに落ちた」という感想しか持てませんでした。

家庭用電気料金は、NHKの調べでは昨年の秋以降、既に20%上がっているそうですが、さらに電力各社は、来年の1月以降30%以上の値上げを申請しています。政府が支給する「支援金」で、1月から料金が下がると言われていますが、その一方でさらなる値上げも予定されているのです。

さらに、防衛費の増額も私たちの生活に大きくのしかかろうとしています。また、次の2023年4月~2027年3月の「中期防衛力整備計画」では、2019年4月~2023年3月までの27兆円から大幅に増額され、最大43兆円になると言われています。財源については「当面先送り」となっていますが、「国民が広く負担する」消費税増税で賄われるのは既定路線です。所得税や法人税は、あくまでめくらましにすぎません。本音は消費税増税なのです。そのために(翼賛的な増税体制を作るために)、自民党は立民や国民民主を取り込もうとしているのでしょう。

生活必需品を含む物価の高騰もとどまるところを知りません。これでは、弱者はもう「死ね」と言われているようなものです。日本の生活保護の捕捉率(受給資格がある人の中で実際に受給している人の割合)は20%程度で、受給者は人口の1.6%にすぎません。残りの1千万人近い人たちは、生活保護の基準以下の生活で何とか生を繋いでいるのです。

しかも、メディアや世論は、生活保護を「我慢」しているのが偉くて、生活保護を受給するのは「甘え」のように言い、心理的に申請のハードルを高くしているのでした。僅か0.7%程度の不正受給を大々的に報道して、生活保護を受けるのが”罪”であるかのようなイメージさえふりまいているのでした。それが孤独死や自殺などの遠因になっていると言われているのです。メディアや世論の生活保護叩きは、もはや犯罪ださえ言えます。

ちなみに、日弁連の「今、ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」というパンフレットには、次のような各国の比較表が載っていました。ちょっと古い資料ですが、これを見ると、日本が福祉後進国であることがよくわかります(クリックで拡大)。

生活保護捕捉率

この物価高の中で、貧困に喘ぐ人々は今後益々苦境に陥るでしょう。それは“格差”なんていう生易しいものではないのです。文字通り生きるか死ぬかなのです。

日本は30年間給料が上がらず、そのためデフレスパイラルに陥り、”空白の30年”を招いたと言われていましたが、さすがに最近は大企業を中心に賃上げの動きが出ています。でも、それは一部の人の話なのです。賃上げに無縁な人たちにとって、物価高は真綿で首を絞められているようなものです。

国税庁の令和3年(2021年)の「民間給与実態統計調査」によれば、給与所得者の平均は433万円です。その中で、正規(正社員)は508万円、非正規は197万円ですが、正規(正社員)が占める割合は令和2年で僅か37.1%にすぎません。

何度もしつこく言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。それが今の政治のリアルなのです。“下”を代弁する政党、党派の登場が今こそ待ち望まれているときはないのです。

「世界内戦」の時代は民衆蜂起の時代でもある、と笠井潔は言ったのですが、文字通り「世界内戦」の間隙をぬって、イランや中国では民衆が果敢に立ち上がっているのでした。また、ミャンマーでは、軍事政権に対して、若者たちが銃を持って抵抗しています。他には、モロッコやモンゴルでも、物価高に対して大規模な抗議デモが発生しています。

イランや中国の民衆が「Non」を突き付けているのは、「ヒジャブ」や「ゼロコロナ政策」ですが、しかし、それはきっかけアイコンにすぎません。一見、巨像に蟻が挑むような無謀な戦いのように見えますし、欧米のメディアもそういった見方が一般的でした。日本の”中国通”の識者たちも、習近平政権は、デモが起きたからと言って、共産党のメンツに賭けても政策を変えることあり得ない、としたり顔で言っていました。ところが、イランのイスラム政権も中国の習近平政権も、予想に反して「道徳警察」の廃止やゼロコロナ政策の緩和など、一部の”妥協”を余儀なくされているのでした。まるで肩透かしを食らったような感じですが、それは、独裁者たちがデモの背後にある民衆のネットワークを怖れているからでしょう。中国で立ち上がったのは、習近平が言うように学生たちが中心ですが、しかし、学生の背後にネットを通して一般の民衆が存在することを習近平もわかっているからでしょう。

民衆の離反が瞬く間に広がって行くネットの時代では、私たちが思っている以上に、独裁政権はもろいのかもしれません。暴力装置による恐怖政治も、前の時代ほど効果がないのではないか。ネットを媒介にした民衆の連帯の前では、文字通り張り子の虎にすぎないのではないか。

今のようなグローバルな時代では、海外に出ることが当たり前のようになっています。日本だけでなくアメリカやヨーロッパに留学した学生たちは、ネットを通して中国本土の学生たちとリアルタイムに連帯することも可能になったのです。香港の民主化運動で話題になった、中心のない分散型の抵抗運動「Be Water」もネットの時代だからこそ生まれたスタイルですが、今回の中国の民衆蜂起でも、国の内外を問わずそれが生かされているのでした。

それは、イランも同じです。先日、在日イラン人たちが「イスラム体制打倒」を掲げてデモをしたというニュースがありましたが、イラン人たちが国の根幹であるイスラム教シーア派による神権政治を「否定」するなど、本来あり得ないことです。でも、海外に出たイラン人たちは、さまざまな価値観に触れることで、絶対的価値による”思考停止”を拒否したのです。そうやって拷問や死刑になるのも厭わずに、「自由」を求めて本国で蜂起した同胞に連帯しているのです。それもネットの時代だからです。

厚生労働省の「2019年国民生活基礎調査」によれば、2018年の貧困線は127万円で、日本の相対的貧困率は15.4%と報告されています。1千万人という数字は、決してオーバーではないのです。

イランや中国の人々は、「自由」という言うなれば形而上の問題で蜂起したのですが、日本にあるのは身も蓋もない胃袋の問題です。「起て、飢えたる者よ」というのは、決して過去の話ではないのです。


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2022.12.05 Mon l 社会・メディア l top ▲
日本がスペインを破って決勝トーナメントに進出を決めたことで、日本中が地鳴りが起こるような大騒ぎになっています。メディアの「勝てば官軍」はエスカレートするばかりです。

まるで真珠湾攻撃のあとの大日本帝国のように、国中が戦勝ムードに浮かれているのを見ると、天邪鬼の私は、気色の悪さを覚えてなりません。

私はただの「ニワカ」ですが、もちろん、みながみなサッカーに関心があるわけではないでしょう。サッカーで騒いでいるのは一部と言っていいかもしれません。でも、メディアの手にかかれば、まるで国中が歓喜に沸いているような話になるのです。

また、Jリーグのクラブチームの熱烈なサポーターの中には、代表戦にはまったく興味がないという人間もいるのです。それは、日本だけではなくヨーロッパなども同じで、サポーターの間ではそういったことは半ば常識でさえあるそうです。私の知り合いで、スペインリーグの熱烈なファンがいて、年に何度か現地に応援に行っていましたが、彼も代表戦にはまったく興味がないと言っていました。

だから、彼らは、代表戦のときだけサッカーファンになって騒ぐ人間のことを「ニワカ」と呼んでバカにするのですが、たしかに日頃からスタジアムに足を運んで、地元のチームを応援している人間からすれば、代表戦のときだけユニフォームを着てお祭り騒ぎをしている「ニワカ」たちをバカにしたくなる気持はわからないでもありません。

ところが、そんな代表戦を醒めた目で見ていたサッカー通のサポーターでも、スペインに勝った途端、「こんな日が来るとは思わなかった」「隔世の感がある」なんてツイートするあり様なのでした。これではどっちが「ニワカ」かわからなくなってしまいます。

今回のワールドカップで印象的なのは、ヨーロッパや南米のチームが相対的に力が落ちてきた(ように見える)ということです。

日本戦でも、前半のスペインは、まるで日本をおちょくっているかのような、緊張感のないパス回しに終始していました。巧みなパス回しは「ティキ・タカ」と言われスペインサッカーの特徴だそうですが、その先にあるはずの波状攻撃がほとんどありませんでした。パス回しを披露する曲芸大会ではないのですから、今になればあれは何だったんだと思ってしまいます。後半に立て続けに日本に点を入れられてからのあたふたぶりやおざなりなパスミスも、今までのスペインには見られなかったことです。

スペインは、日本が0対1で負けたコスタリカには7対0で圧勝しているのです。サッカーはそんなものと言えばそうかもしれませんが、日本戦ではコスタリカ戦で見せたような迫力に欠けていたのはたしかでしょう。

メディアが言うように、日本の力がホントにスペインやドイツを打ち負かすほど上がってきたのか。でも、ワールドカップの前までは、日本のサッカーはまったく進化してない、そのためワールドカップも関心が薄い、と散々言われていたのです。それが、今度は手の平を返したようなことを言っているのです。

それに、今のバカ騒ぎを見ていると、コロナ禍もあって、どこのクラブも経営が悪化していることが嘘のようです。今年の3月にはお茶ノ水の本郷通りから入ったところにある日本サッカー協会の自社ビル(JFAビル)が、JFAの財政悪化で三井不動産に売却されることが発表され衝撃を与えました。私は、JFAが渋谷の道玄坂の野村ビルにあった頃から知っていますが(その横にいつも路上駐車していたので)、今調べたらお茶の水に自社ビルを建てて移転したのは1993年だそうです。あれから僅か30年で再び賃貸生活に戻るのです。「ニワカ」たちは、日本のサッカーが置かれている厳しい現実に目を向けることも忘れてはならないでしょう。

交通整理の警察官みたいなメッシに頼るだけのアルゼンチンがサウジに負けたのは、小柳ルミ子と違って私は別に驚きませんでしたが、ポルトガルも韓国に負けたし、ブラジルもカメルーンに、ベルギーもモロッコに、フランスもチュニジアに負けました。ドイツに至っては前回大会に続いてグループリーグ敗退なのです。

決勝トーナメントに進出した16ヶ国のうち、ヨーロッパは半分の8ヶ国を占めて一応面目を保ちましたが、南米はブラジルとアルゼンチンの2ヶ国だけでした。たしかに、サッカーも、ヨーロッパや南米が特出した時代は終わり、世界が拮抗しつつあるのかもしれません。

森保監督は、決勝トーナメント第一戦のクロアチア戦への意気込みを問われて、「日本人の魂を持って、日本人の誇りを持って、日本のために戦うということは絶対的に胸に刻んでいかないといけない」と、まるで戦争中の校長先生の訓辞のようなことを言っていましたが、それを聞いて、私は、この監督の底の浅さを見た気がしました。登山もそうですが、スポーツは戦争とは違うのです。森保監督は、スポーツを戦争と重ねるような貧しい言葉しか持ってないのでないか。

日本の代表メンバー27人のうち国内組は7人にすぎず、あとは海外のクラブに所属しています。多くの選手は、普段は海外でプレーしており、代表戦のときだけジャパンブルーのユニフォームを着て、肩を組んで君が代を歌っているにすぎないのです。

サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、そうそう偶然が続くとは思えないので、日本のサッカーのレベルが上がったのかもしれませんが、そうだとしても、「日本人の魂」や「日本人の誇り」は関係ないでしょう。日本代表のレベルが上がったのなら、多くの選手が海外のクラブに所属して、世界レベルのサッカーを経験したからです。強調すべき(問われるべき)は、「日本人の魂」や「日本人の誇り」ではなく、海外で培われた(はずの)ひとりひとりの選手のパフォーマンスでしょう。

それにしても、メディアの「勝てば官軍」には、恥ずかしささえ覚えるほどです。ヨーロッパでは、カタール大会に批判的な声が多く、それに抗議するためにパブリックビューイングをとりやめたり、スポーツバーなども応援イベントを中止したりして、今までの大会のような熱気は見られないと言われています。中にはいっさい報道しないという新聞もあるくらいです。ところが、日本のメディアの手にかかれば、それは負けて意気消沈してお通夜のように静まりかえっている、という話になるのです。戦争中の大本営発表か、と言いたくなりました。

ワールドカップの関連施設の建設に従事した同じアジアからの出稼ぎ労働者6500人が、過酷な労働で亡くなった問題などどこ吹く風のようなはしゃぎようです。ブラジルの応援団の男性が、虹が描かれたブラジルの州旗を持ってスタジアムの近くを歩いていたら、カタールの警察に取り囲まれて旗を取り上げられたという出来事もあったそうですが、そんな国でワールドカップが開催されているのです。カタールは、同性愛者は逮捕され、拷問を受けたり死刑にされたりする国なのです。

日本はそういった問題にあまりにも鈍感なのですが、もっとも、日本でも外国人技能実習制度が人権侵害の疑いがあるとして、国連の人種差別撤廃委員会から是正の勧告がなされていますし、レインボーカラーに対しても、LGBTに反対する杉田水脈のような日本会議や旧統一教会系の右派議員から反日の象徴みたいに呪詛されており、カタールと似た部分がないとは言えないのです。

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、大会前に、カタールの人権侵害に抗議の声が上がっていることについて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」「あくまでサッカーに集中すること、差別や人権の問題は当然のごとく協会としていい方向に持っていきたいと思っているが、協会としては今はサッカーに集中するときだと思っている。ほかのチームもそうであってほしい」とコメントしたそうですが、それこそスポーツウォッシング(スポーツでごまかす行為)の見本のようなコメントと言っていいでしょう。ヨーロッパのサッカー協会に比べて、田嶋幸三会長の認識はきわめてお粗末で下等と言わねばなりません。それがまた、日本のメディアの臆面のない「勝てば官軍」を生んでいるのだと思います。

もっとも、前も書きましたが、「勝てば官軍」=ぬけがけ・・・・の思想においては韓国も同じです。ここでも、日本と韓国は同じ穴のムジナと言っていいほどよく似ているのでした。
2022.12.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
東京都八王子市の東京都立大南大沢キャンパスの構内で、宮台真司氏が何者かに襲われ、重傷を負うという事件がありました。

報道によれば、事件が起きたのは29日の午後4時15分過ぎで、宮台氏は4限目の講義を終えたあと、次のリモート講義のために、自宅に帰宅しようと駐車場方向に歩いていたときに背後から襲われたそうです。

現在、宮台氏の講義が大学で行われるのは火曜日のみで、犯人は、そういった宮台氏のスケジュールを把握していた可能性があるという、警察の見方を伝えている報道もありました。ただ、大学の構内と言っても、都立大の南大沢キャンパスは、地元民が普段から近道として自由に行き来していたようなところで、実際に犯人も、宮台氏を襲ったあと、植え込みを越えて駅と反対側の住宅街の方へ小走りで逃走したことが近辺のカメラの映像で確認されているそうです。

「宮台真司」という固有名詞を狙ったというより、「人を刺してみたかった」とか「殺してみたかった」というような、カミュの『異邦人』のような動機による事件と考えられなくもないのです。

もし、言論封殺を狙った思想的な背景によるものであれば、「赤報隊事件」や筑波大学の「悪魔の詩訳者殺人事件」のように、”難事件”などと言われ迷宮入りになる可能性はあるでしょう。通り魔や個人的な恨みによる犯罪であれば、早晩、犯人は捕まるような気がします。警察とはそんなものです。

事件後、ヤフコメなどには、遠回しに「宮台はやられて当然」みたいな書き込みが結構見られました。ミャンマー国軍に拘束され、先頃解放された映像作家の久保田徹氏についても、「自己責任」「自業自得」という書き込みがありましたが、もしかしたら、投稿した人間のかなりの部分は重なっているのかもしれません。

ヤフーは、先日、ヤフコメに投稿する際に携帯番号の登録を必須にしたことで、不適切な投稿が目に見えて減ったと自画自賛していましたが、ヤフコメが相変わらず下衆なネット民の痰壺、負の感情のはけ口であることにはいささかも変わりがないのです。水は常に低い方に流れるコメント欄を設置している限り、どんな対策を取っても同じです。不適切投稿の対策というのは、ヤフーの「やってますよ」というアリバイ作りにすぎないのです。

そんな中、公正取引員会が、ネットに記事を配信している新聞やテレビや雑誌などのメディアと、ヤフーやGoogleやLINEなどのポータルサイトやアプリの運営事業者との間で、適切な取り引きが行われているか、実態調査に乗り出すことになった、というニュースがありました。まず国内の新聞社やテレビ局、出版社など300社にアンケート調査を行い、今月7日までの回答を求めているそうです。

杉田水脈議員と同じような「ヘイトスピーチのデパート」(日刊ゲンダイ)と化しているヤフコメの背景に、ニュースをバズらせてページビューを稼ぎ、広告収入を稼ぐというヤフーの方針があるのはあきらかです。不適切な投稿を根絶するにはコメント欄を閉鎖するしかないのですが、ヤフーがコメント欄を閉鎖することは天地がひっくり返っても絶対にあり得ないでしょう。孫正義氏の”拝金思想”がそれを許すはずがないのです。

芦田愛菜が、ネットのCMで、ワイモバだと「5Gは無料です」とか「SIMはそのままで乗り換えできます」(eSIMの場合)とか「余ったデータを翌月に繰り越すことができます」などとアピールしていますが、そんなのは当たり前です。どこの会社でもやっていることです。むしろ、翌月繰り越しなどはワイモバが一番遅かったくらいです。それをあたかもワイモバイルのウリのようにCMで強調するところに、ヤフーという会社の体質がよく表れているように思います。

プラットフォーマーがユーザーに無断でネットの閲覧履歴などを収集し、それを個人の属性と紐づけて利用していることが問題視され、現在は一応、(有無を言わせないかたちで)ユーザーの承諾を得るようになっていますが、その閲覧履歴を自分で削除しようとしても、ヤフーの場合はほとんど不可能です。

Google(chrome)だと一括して削除することが可能ですが、ヤフーの場合は、1回にチェックを入れて削除できるのは30件だけです。

削除できるのは過去1年分のデータですが、たとえば、私の場合、「サイト閲覧履歴」は30万件ありました。全部削除しようと思うと、1件つづチェックを入れて削除する作業を1万回くり返さなければならないのです。「広告クリック履歴」は、6万件でした。こんなユーザーをバカにしたシステムはないでしょう。ヤフーに比べれば、Googleの方がまだしも良心的に思えるほどです。

ヤフコメはTwitterなどのSNSと比べて敷居が低く、その分低劣な投稿が集まりやすいのは事実でしょう。相互批判がないので、かつての2ちゃんねると比べても夜郎自大になりやすく、文字通り克己のない「バカと暇人」の巣窟になっているような気がします。

そもそもコメント欄に巣食う人間たちはただの・・・ユーザーなのか、という問題もあります。カルト宗教の信者たちが巣食っているのではないか、という指摘さえあるくらいです。

ヤフーの担当者が見ているのは、アクセス数だけです。彼らにとっては、アクセス数の多い記事ほどニュースの価値があるのです。彼らは、「もっとアクセスが多くなる記事を並べろ」「もっとバズらせろ」とハッパをかけられて、ニュースサイトを運営しているのです。そうやってニュースをマネタイズすることが仕事なのです。

記事を書いている記者たちは、自分たちが苦労して取材して書いた記事が、こんな扱いを受けていることに何も思わないのだろうかと思います。Yahoo!ニュースでは、記事の配信料もPV(閲覧数)などに基づいて計算されているそうです。記事をバズらせてPVを上げるためには、コメント欄はなくてはならないものです。「便所の落書き」という言葉がありましたが、記者たちが書いた記事は、まるで便所の尻ふきみたいに使われているのです。

一方で、前も書いたように、少しでもPVを稼ぐために、週刊誌やスポーツ新聞は、「便所の落書き」をまとめた”コタツ記事”を量産しています。炎上目的で書いているような”コタツ記事”も多いのです。

最近はさすがに、全国紙の記事にはコメントが投稿できないようになっていますが、ミソもクソも一緒にされることで、ネットの「バカと暇人」にオモチャにされ、いいように愚弄されていることには変わりがありません。ヤフーに記事を提供することで、記事の価値を貶め、その結果、読者離れを招いて、みずから首を絞めていることにどうして気が付かないのかと思います。

ウトロの放火事件のように、ヤフコメの中から英雄気取りの”突破者”が湧いて出ることだって当然あるでしょう。宮台真司氏は、「感情の劣化」ということを盛んに言っていましたが、GoogleがWeb2.0で提唱した「総表現社会」の行き着く先にあったのは、このようなネットで勘違いしたり、勘違いさせられた人間たちの、散々たる「感情の劣化」の光景なのです。しかも、それは、ネット特有の夜郎自大と結びついた、下衆の極みみたいなものになっているのです。


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(2022年11月)

先日、九州から喪中の挨拶のはがきが届きました。それは、私が九州にいた頃に毎日のように通っていた焼き鳥屋の主人からでした。店は夫婦二人でやっていたのですが、そのはがきで、私たちが「ママ」と呼んでいた奥さんが今年亡くなっていたことを知ったのでした。

九州の会社に勤めていた際、営業所に転勤になり、営業所のある町で一人暮らしをしていたのですが、焼き鳥屋はその町にありました。

赴任したのは、新設の営業所だったので、オープンして間もなく営業所のメンバーと親睦会を開いたときに、地元で採用された事務の女の子の提案で初めて行ったのを覚えています。地元の若者たちに人気の店で、いつも夫婦でてんてこまいしていました。

以来、何故か、私は酒も飲めないのに、その焼き鳥屋に通いはじめたのでした。やがて、よほどのことがない限り、ほぼ毎日通うようになりました。そのため、店に行かないと「どうしたの?」と心配して電話がかかってくるほどでした。

コロナ禍前に帰省したときも店に行きましたが、そのときは夫婦とも元気でしたので、はがきが届いてびっくりしました。「ママ」の享年は74歳だったそうです。もうそんな年になっていたとは思ってもみませんでした。

また、はがきには、自分も来年80歳になるので、これを機会に店を畳むことにした、と書いていました。また、年始の挨拶も今年限りで遠慮したいとも書いていました。

何事にも時計の針が止まったままのような感覚の中にいる私は、ショックでした。そんなわけがないのですが、いつまでも何も変わらないように思っていたからです。

同じ町内に、当時の会社の先輩だった人が住んでいるので、電話してみました。その人は、親類の会社を手伝うために、私と入れ替わるように会社を辞めたので、会社にいた頃はほとんど交流はありませんでした。ところが、親戚の会社が営業所と同じ町内にあり、その人ものちに町に転居してきたことで、急速に親しくなったのでした。今でも帰省するたびに会っていますが、癌に侵されて何度も手術をしており、会うたびに「もうこれが最後かもしれないな」と言われるのです。それで、電話するのを一瞬ためらいましたが、しかし、喪中の挨拶が来てないので大丈夫だろうと思って、勇気を奮って電話したのでした。

電話の様子ではまだ元気な様子で安心しました。今年は前立腺癌の手術をしたそうです。その前に胃癌と膀胱癌の手術もしています。それでも、体調がいいと海に魚釣りに出かけている、と言っていました。

話を聞くと、焼き鳥屋の「ママ」は病死ではなく、店の階段を踏み外して転落し、それが原因で亡くなったのだそうです。そんなことがあるのかと思いました。

先輩だった人の親類の会社も、私が上京したあとに倒産して、その際、社長だった義兄がみずから命を絶ったという話も、以前会ったときに聞きました。

その人から見れば甥っ子になる社長の息子二人とは、年齢が近いということもあって一時よく遊んでいたので、彼らのことを訊いたら、何と二人とも癌で亡くなったということでした。それこそいいとこのボンボンで、何不自由のない生活をしていましたが、晩年は倒産と病気で苦労したそうです。

電話で話しているうちに、”黄昏”という言葉が頭に浮かんできました。そうやって、昔親しかった人が次々と亡くなると、何だかひとり取り残されていくような気持になるのでした。年を取るというのはこんな気持になることなのか、と思いました。

翌日、久し振りに奥多摩の山に行ったら、膝が痛くなったということもあるのですが、ふと喪中のはがきや電話したことなどが思い出されて歩く気がしなくなり、途中で下りてきました。こんなことも初めてでした。


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また、床屋政談ですが、22県市の首長と地方議会の議員らが対象となる台湾の統一地方選の投開票が26日に行われ、与党の民主進歩党(民進党)が大敗し、蔡英文総統が選挙結果を受けて辞職を表明する、というニュースがありました。

今回の統一地方選は、2024年1月に行われる総統選の前哨戦として注目されていたのですが、台北市長選では蒋介石のひ孫で野党の国民党の蒋万安氏が当選するなど、民進党は21の県・市長選でポストを減らしたのでした。

この選挙結果について、日本のメディアでは「親中派の野党・国民党が勝利」という見出しが躍っていますが、ホントにそうなのか。

8月のナンシー・ペロシアメリカ下院議長の電撃的な台湾訪問をきっかけに、一気に米中対立なるものが浮上し、日本でも防衛力の強化が叫ばれるようになりました。

既に、政府・与党は、2023年度から向こう5年間の中期防衛力整備計画(中期防)の総額を、40兆円超とする方向で調整に入ったそうです。これは、現行(2019~23年度)の27兆4700億円から1.5倍近くに跳ね上がる金額です。

台湾の民進党も、大陸の脅威を前面に出して対中政策を争点にしようとしたのですが、それが逆に裏目に出て、今回は蔡政権誕生を後押しした若い層の反応も鈍かったと言われています。

今回の選挙結果は、必ずしも「親中派の勝利」ではなく、アメリカが煽る米中対立に対する国民の懸念が反映されたと見ることができるように思います。米中対立に対して、台湾国民は冷静な判断を下したのではないか。

8月のナンシー・ペロシ下院議長の電撃的な台湾訪問は、きわめて不純な意図をもって行われたのは間違いありません。わざわざ米軍機を使って訪台し、中国を挑発したのです。それでは、中国も外交上「やるならやるぞ」という姿勢を見せるしかないでしょう。

ジョー・バイデンは、ウクライナ支援でも取り沙汰されていましたが、巨大軍需産業とのつながりが深い大統領として有名です。ウクライナ侵攻では、各国の軍需産業が莫大な利益を得ており、株価も爆上げしています。

唯一の超大国の座から転落したアメリカは、もはや世界の紛争地に自国軍を派遣する“世界の警察官”を担う力はありません。相次ぐ大幅利上げに見られるように、経済的にも未曽有のインフレに見舞われ苦境に陥っています。

トランプが共和党の大統領候補になることは「もうない」と言われていますが、しかし、トランプが主張した「アメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)」は、民主・共和党を問わず、アメリカの本音でもあるのです。

そこで新たな戦略として打ち出されたのが、“ウクライナ方式”です。しかし、今回の選挙結果に見られるように、台湾の国民は、ウクライナの二の舞になることを拒否したのです。

アメリカと一緒になって徒に大陸を刺激する蔡政権にNOを突き付けることによって、戦争ではなく平和を求めたのだと思います。「親中」とか「媚中」とかではなく、ただ平和を希求しただけで、それが大陸に対して融和策を取る野党に票が集まる結果になったのです。

台湾と日本は立場が異なるので一概に比較はできませんが、日本の議会では、アメリカの戦略に正面から異を唱える政党が、共産党やれいわ新選組のような弱小政党を除いてありません。その選択肢の欠如が、アメリカの尻馬に乗った「防衛力の抜本的な強化」という同調圧力をさらに増幅させることになっているのはたしかでしょう。

‥‥‥

それは、今のワールドカップでも言えることです。国別の対抗戦であるワールドカップが、ナショナリズムとむすびつくのは仕方ないとは言え、しかし、同時に、ボール1個があれば誰でもできるサッカーは、競技人口がもっとも多いスポーツで、それゆえに「世界」と出会うことのできる唯一のスポーツでもある、と言われているのです。

主にヨーロッパ各国の選手やサッカー協会(連盟)がカタール開催を決定したFIFAに反発して、カタールの人権問題やFIFAの姿勢を批判しているのも、サッカーが単に偏狭なナショナリズムの発露の場だけではなく、「世界」と出会うことができるインターナショナルなスポーツだからなのです。

一方、FIFAのインファンティーノ会長が、ヨーロッパでカタールの人権問題に批判が集まっていることに対して、「私は欧州の人間だが、欧州の人間は道徳的な教えを説く以前に、世界中で3000年にわたりやってきたことについて今後3000年謝り続けるべき」「一方的に道徳的な教えを説こうとするのは単なる偽善だ」、と中東の金満国家のガスマネーに群がったFIFAの所業を棚に上げて、フランツ・ファノンばりの反論を行っていたのには唖然とするしかありませんでした。

また、FIFAは、ヨーロッパ7か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーすることに対しても、イエローカードを出すと恫喝して中止させたのでした。

そんなFIFAの妨害にもめげずに、オーストラリアの選手たちはカタールの人権侵害を批判するメッセージを動画で発信していました。ドイツやイングランドの選手たちも試合前のセレモニーで抗議のポーズを取っていました。また、イランの選手たちは、自国政府の女性抑圧に抗議して、国家斉唱の際に無言を貫いたのでした。それに比べると、カタール大会の問題などどこ吹く風の日本代表の選手たちは、まるで甲子園に出場した高校生のように見えました。彼らの多くはヨーロッパのクラブに所属していますが、BTSと同じような「勝てば官軍」みたいな野蛮な(動物的な)考えしかないかのようでした。それは、サッカー協会もサポーターも同じです。もちろん、韓国も似たようなものです。文字通り、スポーツウォッシングと言うべきで、はなからサッカーを通して「世界」と出会う気もさらさらないし、そういうデリカシーとも無縁です。

そして、メディアは、災害復興プロジェクトから招待された応援団が、日の丸を背にスタンドでゴミ拾いをするパフォーマンスを取り上げて、「世界から称賛」などと、まるで”お約束事”のように「ニッポン凄い!」をアピールするのでした。と思ったら、案の定、疑惑の渦中にある秋葉賢也復興相が、みずからのTwitterで件の災害復興プロジェクトに触れていました。それによれば、「日本の力を信じる」なるスローガンを掲げ、災害に遭った高校生をカタール大会に招待した災害復興プロジェクトは、国家が多額の公金を出して後押ししたものだったのです。

莫大な放映権料を回収するために動員されたサッカー芸人たちが、朝から晩までテレビで痴呆的な”応援芸”を演じているのも、うんざりさせられるばかりでした。どのチャンネルに切り替えても同じような企画の番組ばかりで、口にしている台詞も同じです。

日本VSドイツに関して言えば、ドイツが今ひとつチグハグな感じがあったものの、サッカーにあのような番狂わせはつきものなのです。その一語に尽きるように思いました。「人権問題などに関わっているからだ」「ざあまみろ」という日本人サポーターの声が聞こえてきそうですが、たまたま運が日本の味方をしただけです。

ドイツ戦のヒーローとして、浅野拓磨や堂安律やGKの権田修一が上がっていますが、ヒーローと言うなら後半途中から出場してドリブルで流れを変えた三笘薫でしょう。その意味ではまともに解説していたのは、私の知る限り闘莉王だけだったと思いました。

ちなみに、今日対戦するコスタリカは、非武装中立を掲げる国で常備軍を廃止しています。アメリカの没落で南米のほとんどの国が左派政権になったということもあり、現在も非武装中立を堅持しているのでした。また、LGBTや移民政策なども、カタールや日本よりはるかに進んでいます。

世界経済フォーラムが発表したジェンダーギャップ指数(男女平等格差指数)の2022年版でも、コスタリカは12位ですが日本は116位です。コスタリカは軍事費が少ないということもあって経済的にも豊かな国なのです。少なくとも、ウクライナのアゾフ連隊のようなサポーターとは無縁な国のはずです。

サッカーはルールも簡単で、わかりやすく面白いスポーツなので、熱狂するのもわかりますが、しかし、サッカーの背後にある「世界」に目を向ける冷静さも忘れてはならないのです。「勝てば官軍」ではないのです。

追記:
コスタリカは後半の唯一のシュートが決勝点になった(それも吉田のクリアミスのボールを)という、如何にもサッカーらしいゲームでした。コスタリカVSスペインのときのスペインのように、日本は圧倒的にボールを支配しゲームをコントロールしていたにもかかわらず、スペインのような決定打が欠けていたのです。ニワカから見ても、海外でプレイしている選手が多いわりには、まだ個の力が足りないように思いました。いくら合掌してお題目を唱えても、浅野に2匹目のドジョウを求めるのは酷というものです。サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、何だか運をドイツ戦で使い切っていたことにあとで気づかされたような試合でした。


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2022.11.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
いつもの床屋政談ですが、更迭した寺田総務相のあとに就任した松本剛明新総務相に関しても、就任早々、共産党の赤旗が、政治資金パーティーで収容人数が400人の会場にもかかわらず、1000人分のパーティー券を販売した”疑惑”を報じたのでした。パーティーに出席しない人の購入分は、政治資金規正法では寄付に当たるのですが、松本総務相の資金管理団体は「寄付」と報告してないそうで、政治資金規正法違反の疑いがあるというものです。

普段なら赤旗を無視する大手メディアも、さっそく食いついて大きく報道しています。そのため、岸田首相も「本人から適切に説明すべきだ」と発言をせざるを得なくなったのでした。あきらかに岸田首相に、メディアの前で“弁明”させるように仕向けた“力”がはたらいているように思えてなりません。まるで次は松本新総務相だと言わんばかりです。

さらに追い打ちをかけるように、国会の予算委員会の大臣席で、何故か水を飲むためにマスクを外した写真ばかりが掲載されている秋葉賢也復興相についても、公設秘書2人に対して、選挙期間中、給料とは別に運動員としての報酬を支払っていたことを「フライデー」が報じ、公職選挙法違反の疑いが指摘されているのでした。秋葉復興相については、他に、次男を候補者のタスキをかけて街頭に立たせていたという、とんでもない”影武者”疑惑も持ち上がっています。まさに際限のないドミノ倒しの様相を呈していると言えるでしょう。

そして、きわめつけ、と言うかまるでトドメを刺すように、岸田首相についても、文春オンラインが、昨年の衆院選における選挙運動費用収支報告書で「宛名も但し書きも空白の白紙の領収書94枚を添付」していたことが判明し、これは「目的を記載した領収書を提出することを定めた公職選挙法に違反する疑いがある」と報じたのでした。私たちが若い頃は、文春は内調(内閣情報調査室)の広報誌とヤユされていました。それが今や「文春砲」などと言われて、やんやの喝采を浴びているのです。

言うまでもなく、その背後に、自民党内の権力闘争が伏在しているのは間違いないでしょう。衆参で絶対的な勢力を持ち、しかも、向こう3年間選挙がない「黄金の3年」だからこそ、選挙を気にせず思う存分権力闘争に注力できるという裏事情も忘れてはならないのです。

SAMEJIMA TIMESの鮫島浩氏によれば、岸田首相の足をひっぱっているのは、自民党の茂木敏充幹事長、萩生田光一政調会長、麻生太郎副総裁、それに、松野博一官房長官だそうです。それがホントなら、岸田首相はもはや四面楚歌と言っていいでしょう。岸田政権のダッチロールが取り沙汰されるのは当然です。

SAMEJIMA TIMES
倒閣カウンドダウン「岸田降ろし」が始まった!

岸田首相は来年5月のG7広島サミットまで何とか総理大臣の椅子にしがみつくのではないか、と鮫島氏は言ってましたが、広島サミットを花道にするなどという、そんな予定調和の権力闘争なんてあるんだろうか、と思いました。その前に、一部で観測されているように、岸田首相が伝家の宝刀を抜いて、起死回生の解散総選挙に打って出る可能性だってあるかもしれません。そうなったら、選挙後には、鮫島氏が言う”増税大連立”構想が(もし事実なら)俄然現実味を帯びてくるでしょう。

「またぞろ国民そっちのけの権力闘争」というお定まりの声が聞こえてきそうですが、しかし、そこには、衆愚政治に踊らされ、何ががあっても自民党に白紙委任する日本の有権者の愚鈍な姿も二重映しになっているのです。愚鈍な有権者のお陰で、政治家たちは心置きなく高崎山のボス争いのような権力闘争に心を砕くことができるのです。

昔、「田舎の年寄り」が自民党を支えているという話がありました。「田舎の年寄り」というのは、日本の後進性を体現する、言うなれば”寓意像アレゴリー”としてそう言われたのでした。しかし、世代が変わって、都会生まれの若者が年寄りになっても、何も変わらなかったのです。相も変わらず国家はお上なのです。

みんながスマホを持つようなネットの時代になっても、昔、政治は二流でも経済は一流と言われたのが、経済までが二流になっても、国民の政治に対する意識は何も変わらず次の世代に引き継がれたのです。これは驚くべきことと言わねばなりません。

「批判するだけでは何も変わらない」と言う人がいますが、批判しないから、批判が足りないから何も変わらないのではないか。無党派層や投票に行かない無関心層を何とかすれば、政治が変わるようなことを言う人がいますが、そんな簡単な話なんだろうか、と思います。そういった政治にアパシーを抱いている人々が投票所に足を運ぶようになったら、逆に、むき出しの全体主義に覆われる怖れだってあるのではないか。彼らは必ずしもリベラルが願うような“賢明な人たち”だとは限らないのです。

昔、「デモクラティック・ファシズム」という言葉がありました。私は、二大政党制を理想視して、労働戦線の右翼的再編=連合の誕生と軌を一にして誕生した旧民主党の存在を考えるとき、(本来の意味とは多少異なりますが)その言葉を思い出さざるを得ないのです。左右の「限界系」を排した中道の道が左派リベラルが歩む道だというような「野党系」の講壇議会主義がありますが、今の立憲民主党を見るにつけ、”中道”を掲げて翼賛体制に突き進む、シャンタル・ムフの指摘を文字通り地で行っているように思えてなりません。私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを口が酸っぱくなるくらい言ってきましたが、それは換言すれば、野党ならざる政党が野党である不幸なのです。

それにしても、立憲民主党に随伴する左派リベラルのお粗末さよ、と言いたくなります。彼らは、立憲民主党が目指しているのが自分たちが求めている政治とは真逆のものだということがどうしてわからないのか、と思います。連合に対しても然りです。

福島第一原子力発電所の事故をきっかけにあれほど盛り上がった反原発運動も、野田佳彦首相(当時)との面会で、風船の空気がぬけるようにいっきにしぼんでしまったのですが、その失敗を安保法制反対の国会前行動でも繰り返したのでした。誰がその足をひっぱってきたのか。

れいわ新選組の長谷川羽衣子氏が鮫島氏との対談で、アメリカのオキュパイ運動を例に出して、社会を変えるには、議会政党も社会運動の中から生まれ、社会運動と共振したものでなければダメなんだ、というようなことを言っていましたが、まったくそのとおりです。私も何度もくり返してきましたが、ギリシャのシリザでもスペインのポデモスでもイギリスのスコットランド国民党でもフランスの不服従のフランスでもイタリアの五つ星運動でもみんなそうです。選挙の結果には紆余曲折があり、必ずしもかつての勢いがあるとは言えませんが、しかし、少なくとも野党というからには、社会運動を背景にし社会運動と共振した政党でなければ野党の役割を果たせないのは自明です。

言うまでもないことですが、松下政経塾や官僚出身の議員や、秘書としてそういった議員から薫陶を受けた議員たちには、東浩紀などと同じように、上から政治のシステムを変えればいいというような、政治を技術論で捉える工学主義やエリート主義があります。その意味では、官僚機構に支えられた政権与党と同じなのです。だから、必然的に財政再建派にならざるを得ず、”増税政党”としての性格を帯びざるを得ないのです。おそらく彼らの頭の中は増税一択なのでしょう。福祉のため、財政再建のためという口実の下、今度は軍備増強のための増税に与するのは目に見えています。

昔、「田舎の年寄り」が支えると言われた政治が、世代を変わっても何も変わらず私たちの上に君臨しているのも、社会運動から生まれた真に変革を志向する政党がないからです。それは、右か左かではありません。上か下かなのです。そして、求められるべきは下を代弁する政党なのです。


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『左派ポピュリズムのために』
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2022.11.24 Thu l 社会・メディア l top ▲
アマゾン


案の定と言うべきか、Twitter、メタに続いてアマゾンもリストラに着手するというニュースがありました。ほかの記事と合わせると、どうやらキンドルやエコーなどのデバイス部門やリテール部門、それに人事部門が削減の対象になるようです。

Yahoo!ニュース(11月18日)
AFP BB NEWS
米アマゾン、人員削減に着手

もっとも、記事にあるように、アマゾンの従業員は正社員だけで162万人もいるのですから、1万人といっても0.6%にすぎません。Twitterやメタに比べると、同じリストラでも全体に占める割合は微々たるものです。一方で、今年に入って時間給のアルバイトやパート6万人を、既にリストラしているという話もあります。

アメリカのアマゾンの業績については、下記の記事が詳しく伝えていました。

日経クロステック(10月31日)
米Amazonの2022年7~9月期決算は5割減益、AWSにも景気の逆風

記事によれば、直近の2022年7~9月期の売上高は「前年同月比15%増の1271億100万ドル(約18兆5900億円)でしたが、営業利益は48%減の25億2500万ドルで増収減益」だったそうです。

主力の通販事業は7%増加して534億8900万ドルです。増加した要因は、「2021年は6月に開催した有料会員向けのセールであるプライムデーを2022年は7月に実施した」からだそうです。と、例年どおり6月にプライムデーを実施していたら、もっと厳しい数字になったことをみずから認めているのでした。

もう1つの主力事業の(と言うか、いちばんドル箱の)ホスティングサービスのAWS (アマゾンウェブサービス)にも逆風が吹いており、「売上高は前年同期比27%増の205億3800万ドルと伸びたものの、(略)金融、住宅ローン、暗号通貨などの業界で需要が減少している」そうです。

しかも、エネルギーコストの上昇も重荷となっていて、「電気や天然ガスの価格が高騰し、『この数年で2倍になった。これはAWSにとって初めての経験だ』」という、オルサブスキーCFOの言葉も紹介されていました。

これは、7~9月期の話ですから、今はもっとコストの上昇に喘いでいるはずです。それが今回のリストラのひきがねになったのは間違いないでしょう。

デジタルと言っても、電気がないと“宝のもち腐れ”です。アマゾンのCEOが言うように、デジタルの時代も電気や天然ガスに依存せざるを得ず、近代文明を支えてきた“エネルギー革命”から自由ではないのです。デジタルの時代というと、まったく新しい文明が訪れたかのような幻想がありますが、所詮は今ある近代文明の枠内の話にすぎないのです。だからこのように、リストラ(人員整理)などという、古典的な(あまりに古典的な!)資本の矛盾からも逃れることができないのです。

私がネットをはじめた頃は、「無料経済」という言葉が流行っていました。それは結構衝撃的な言葉でした。しかし、厳密に言えば無料ではなかったのです。だから、「無料経済」という言葉も死語になったのかもしれません。

言うまでもなく、私たちが無料でサービスを利用できるのは広告があるからです。最初は、簡単なシステムでしたが、グーグルが登場してから、グーグルが私たちの個人情報を収集してそれを広告主に提供したり、より効果のある広告を出すために利用するようになったのです。つまり、ネットが「タダより怖いものはない」世界になったのでした。

アレクサに日常生活を覗き見られることで、個人の趣味や嗜好だけでなく、その家族の生活や人生にまつわる仔細な情報が抜き取られる怖さが一部で指摘されていましたが、多くの人たちはそこまで考えることはなく、ただ「便利だからいいじゃん」という受け止め方しかありませんでした。それは、マイナンバーカードなども同じです。考え方が新しいか古いかという、ほとんど意味もない言葉でみずからを合理化しているだけなのです。

とは言え、我が世の春を謳歌しているように見えるデジタルの時代であっても、過剰生産恐慌のような資本主義の宿痾と無関係でいられるわけではないのです。今、私たちが見ているのは、エネルギー価格の高騰によってサーバーの維持管理費の負担が大きくなったり、景気の減速で収益源である広告費が頭打ちになったりして、デジタル革命を牽引してきたプラットフォーマーが打撃を受けているという、資本主義社会ではおなじみの(あまりにもおなじみの!)光景にすぎません。

一方、共同通信は、アマゾンのリストラのニュースが流れた中で、それとは真逆の記事を掲載していました。

Yahoo!ニュース(11月18日)
KYODO
アマゾン、日本に長期投資 チャン社長「成長余地たくさん」

しかし、チャン社長の発言は、どう見ても、外交辞令、リップサービスだとしか思えません。その証拠に、記事は次のように書いていました。

 チャン氏は「成長余地はたくさんある」と強調した。一方で、世界的な景気減速懸念が強まる中、日本への短期的な投資や雇用の方針は「全世界の変動で、日本にどのような影響があるのかによって変わる」と述べるにとどめた。


では、アマゾンジャパンの売上げはどうなっているのか。

2021年の日本事業の売上高は230億7100万ドルで前年比12.8%増です(2020年の日本事業売上高は204億6100万ドルで前年比27.9%増)。1ドル110円で換算すると、2兆5378億1000万円です。

しかし、世界の売上高に占める日本事業の割合は4.9%にすぎません。2010年は14.7%でした。それ以後下がり続けてとうとう5%を切ってしまったのでした(2020年は5.3%)。また、欧米の伸び率はほぼ20%を超えていますが(アメリカだけが19.2%増)、主要国では日本の伸び率(12.8%増)だけが際立って低いのでした。だから、「成長の余地がある」という話なのか、と皮肉を言いたくなりました。

①日本事業シェア推移(%)
(売上げ金額は省略)
2010年 14.7
2011年 13.7
2012年 12.8
2013年 10.3
2014年  8.9
2015年  7.7
2016年  7.9
2017年  7.7
2018年  5.9
2019年  5.7
2020年  5.3
2021年  4.9

②主要国別シェア(%)
2021年の売上高(金額省略)
アメリカ 66.8
ドイツ 7.9
イギリス 6.8
日本 4.9
その他13.5

③主要国伸び率(%)
2021年売上高(金額省略)
アメリカ 19.2
ドイツ 26.3
イギリス 20.5
日本 12.8
その他 38.0


アマゾン全体の項目(業界用語で言うセグメント)別の売上高を見ると、以下のとおりです。

2021年度売上
4698億2200万ドル(前年比21.7%増)
51兆2015億800万円(1ドル=109円)
純利益
333億6400万ドル(56.4%増)
3兆6366億7600円(同)

①直販(オンラインストア)
2220億7500万ドル(12.5%増)
②実店舗(ホールフーズ)
170億7500万ドル(5.2%増)
③マーケットプレイス(手数料)
1033億6600億ドル(28.5%増)
④サブスクリプション(年会費等)
317億6800万ドル(26.0%増)
⑤AWS
662億200万ドル(37.1%増)
⑥広告
311億6000億ドル(前年項目なし)


伸び率がもっとも低いのが「実店舗」の5.2%増で、その次に低いのが「直販」の12.5%増です。ちなみに、「直販」の売上金額は、全体の47.3%を占めています。

こうして見ると、物販の効率がいかに悪いかがわかります。利益率が公表されていませんが、マーケットプレイスの手数料やプライム会員の年会費のようなサブスクに比べると、「直販」の利益率が桁違いに低いのは想像に難くありません。もちろん、「直販」が柱になることで、プライム会員やマーケットプライスなど利益率の高いビジネスが可能になっているのはたしかですが、そのためにあれだけの物流倉庫を抱え、そこで働く人員を揃え、莫大な物流経費を負担しているのです。

アマゾンの看板であるEC事業は赤字で、アマゾン自体はドル箱であるAWSで「持っている」という話は昔からありますが、こうして見ると、あながち的外れではないように思います。

ネット通販をやっていた経験から言っても、ネット通販は言われるほどおいしい商売ではありません。もちろん、実店舗を構えるよりコストは安いですが、敷居が低い分、競争も激しいので売上げを維持するのは大変です。アマゾンのような既存の商品をメーカーや問屋から仕入れて小売する古典的なビジネスでは、利益率はたかが知れているのです。

ネットは金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるというネットの”鉄則”に従えば、マーケットプレイスの方がはるかにおいしいはずです。

楽天と比べてアマゾンはワンストップでいろんなものが買えるので、ユーザーには至極便利ですが、それもアマゾンだからできるとも言えるのです。だから、アマゾンに対抗するようなECサイトが出て来ないのです。ヨドバシカメラがドン・キ・ホーテのように戦いを挑んでいますが、売上高はまだアマゾンの10分の1にすぎません。

ネットが本格的に私たちの生活の中に入って来るようになっておよそ20年ですが、資本主義に陰りが見えるようになった現在、ネットビジネスも大きな曲がり角を迎えているのは間違いないでしょう。
2022.11.22 Tue l ネット l top ▲
朝日新聞


別に最近YouTubeの鮫島浩氏のチャンネルを観ているからではないのですが、朝日新聞のテイタラクをしみじみ感じることが多くなりました。

YouTube
SAMEJIMA TIMES

今更の感がありますが、やはり、貧すれば鈍すという言葉を思い出さざるを得ないのです。

昨日(11月20日)の朝日には、旧統一教会の問題に関連して、被害者救済を柱とした新法の概要が明らかになり、それに対して、野党や被害者救済に取り組んでいた弁護士や元信者らが「実効性が低い」と反発している、という記事が出ていました。

しかし、鮫島氏のYouTubeによれば、新法は今国会で成立することが水面下で野党(立憲と維新)と合意ができているというのです。寺田総務相の辞任は想定外だったけど、それも野党に手柄を与えるプレゼントになるのだと。

たしかに、ひと月で3人の大臣が辞任したのは“異常”ですが、そうまでして野党(立民)に花を持たせるのは、その背後に大きな合意があるからだと言うのです。それは、鮫島氏の言葉を借りれば「増税大連立」です。

鮫島氏は、財務省の仲介で自民党の宏池会と立憲民主党が“野ブタ”こと野田佳彦元首相を首班に、消費税増税を視野に「大連立」を組む話が進んでいると言うのですが、ホントでしょうか。

立憲民主党が民主党政権時代の三党合意に縛られているのはたしかでしょう。野田政権で副総理を務めた岡田克也氏と財務相を務めた安住淳氏が執行部に復帰したり、前代表の枝野幸男氏が、2021年10月の衆院選の(野党連立の)公約で掲げた「時限的な5%への消費税減税」を「間違いだった」「二度と減税は言わない」と発言するなど、立憲民主党が財政再建を一義とする“増税政党”としての本音を露わにしつつあるのは事実です。さらに、政府の税務調査会が、増税のアドバルーンを上げたりと、既に消費税増税の地ならしがはじまっているような気がしてなりません。

野田首班による「大連立」というのは俄かに信じられませんが、その背後に、自民党内の宏池会と清話会の対立も絡んでいるというのはわかるような気がします。閣僚の辞任ドミノの“異常事態”は、「支持率の低下」「野党の追及」だけでなく、むしろ、自民党内の権力闘争という視点から見た方がリアルな気がします。

でも、メディアには、そういった報道は一切ありません。財務省の思惑や党内の権力闘争など、はなから存在しないかのようで、“与野党対立”という定番の記事で埋められているだけです。それは朝日も例外なくではなく、この前まで同じ会社の記者だった鮫島氏とは際立った対象を見せているのでした。

それは、しつこいようですが、ワールドカップカタール大会の報道も同じです。カタールの人権問題に対してヨーロッパの選手団の間でさまざまな抗議の動きがありますが、そういった報道は申し訳程度にあるだけで、紙面の多くは「ニッポンがんばれ!」の翼賛記事で覆われているのでした。

大会関連の工事に従事した出稼ぎ労働者6500人が亡くなっていたとスクープしたのはイギリスのガーディアン紙で、それにカタール開催に批判的だったヨーロッパのサッカー界は即反応し、各メディアも追加取材に走ったのですが、それに比べると、日本のクオリティペーパーを自負する朝日の反応の鈍さは一目瞭然です。開会式の翼賛記事も「痛い」感じすらありました。

今の朝日新聞は、外にあっては権力のパシリを務め、内にあっては出世のために同僚の梯子を外すことしか考えてないような、下衆なサラリーマン根性が蔓延するようになっていると言われます。そんな公務員のような事なかれ主義を処世訓とする、風見鶏のような人間たちが経営陣を占めるようになった朝日新聞は、”朝日らしさ”をなくし、ジャーナリズムとして末路を歩みはじめているような気がしてなりません。それでは、ニューヨークタイムズのような紙からデジタルへの転換もうまくいかないでしょう。

ビデオニュースドットコムの神保哲生氏は、鮫島浩氏をゲストに迎えた下記の番組の「概要」で、朝日新聞について、次のように書いていました。

ビデオニュースドットコム
マル激トーク・オン・ディマンド (第1117回)
なぜ朝日新聞はこうまで叩かれるのか
ゲスト:鮫島浩氏


 鮫島氏の話を聞く限り、今や朝日新聞という組織はとてもではないが、リベラル言論の雄を引き受けられるだけの矜持は持ち合わせていないように見える。しかし、問題は朝日がいい加減なことをやれば、これまでリベラル派からやり込められ、リベラルに対して怨念を抱く保守派は嵩に懸かって攻勢に出る。そして、朝日がむしろ社内的な理由から記事の訂正や撤回に追い込まれることにより、リベラルな主張や考え方自体が間違っていたかのようにされてしまう。日本では今もって朝日新聞は、少なくとも一部の人たちにとってはリベラル言論の象徴的な存在なのだ。それは逆の見方をすれば、朝日はもはや組織内ではリベラルメディアの体をなしていないにもかかわらず、表面的にはリベラルの旗を上げ続けることによって、日本のリベラリズムの弱体化を招いているということにもなる。
(略)
 今となっては、朝日はリベラルだから叩かれるのではなく、実際にはリベラルとは真逆なことを数多くやっていながら、表面的にリベラルを気取るから叩かれるというのが、事の真相と言えるかもしれない。だとすれば、今朝日がすべきことは、言行を一致させるか、リベラルの旗を降ろすかの二択しかない。


たしかにその通りなのです。正直言って、20代の頃からの読者である私の中にも、朝日に対して「リベラル言論の象徴的な存在」のような幻想が未だ残っています。しかし、ほとほと嫌気がさしているのも事実です。

朝日の発行部数は、最盛期の半分まで落ちているそうですが、朝日を「リベラル言論の象徴的な存在」のように思っているコアな読者が離れたら、それこそ瓦解はいっきに進むでしょう。あとは不動産管理会社として細々と生きていくしかないのです。

(別にこれは朝日に限りませんが)朝日新聞は、政局でもワールドカップでも、そしてウクライナ侵攻でも、米中対立でも、伝えるべきことは何も伝えてないのではないか。ジャーナリズムの本分を忘れているのではないか。最近は特にその傾向がひどくなっているように思えてなりません。文字通り、堕ちるところまで堕ちたという気がしてならないのです。
2022.11.21 Mon l 社会・メディア l top ▲
明日(11月20日)開催されるFIFAワールドカップカタール大会の開会式のイベントに出演するために、BTSのジョングクが韓国を旅立った、というニュースがありました。彼は、大会の公式サウンドトラックも担当しているそうです。

カタール大会については、前の記事でも書きましたが、関連施設の建設に従事した出稼ぎ労働者が過酷な労働で6500人も亡くなったという話や、カタール政府のLGBTの迫害や女性に対する抑圧などに抗議して、ロッド・スチュワートやデュア・リパが出演を辞退しています。また、選手の間でもさまざまな抗議の動きがあります。そんな中、ジョングクはイベントで(まるでぬけがけのように)パフォーマンスを披露するのです。

折しも、今日の朝日新聞に、「BTSから考える『男らしさ』の新時代」という、元TBSアナウンサーの小島慶子のインタビュー記事が掲載されていました。聞き手は伊藤恵里奈という女性記者です。

朝日新聞デジタル(11月19日)
ジェンダーを考える 第6回
BTSから考える「男らしさ」の新時代 過ちを認め、学び、変化する

その中に次のような箇所がありました。

 ――BTSのデビューは13年。15年から16年ごろ、歌詞が「女性差別だ」と批判を受けました。例えば女性の外見を批評して「女は最高のギフト」としたほか、「食事を目で食べるっていうのか? 女みたいに」と女性を見下す表現がありました。

 当時、韓国ではフェミニズム運動の高まりを受けて、BTSだけでなく色々なK-POPアイドルの歌詞や言動が批判されました。

 BTSは時間はかかったものの、「女性蔑視の表現だった」と認めて、公式に謝罪しました。

 ――かつては、彼らも誤っていた、ということですね。

 そうです。その後は、ジェンダー問題の専門家の意見を交えながら、無意識のうちに内面化されてきた女性差別的な視点が出ないように、本気で学んだのです。


しかし、カタールはイスラム国家であるため、女性の権利は著しく制限され抑圧されています。もちろん、前の記事で書いたように、LGBTへの弾圧も日常的に行われています。カタールの法律では、同性愛の最高刑は死刑と規定されており、実際に死刑になった例もあると言われています。

BTSのどこが「女性蔑視」の誤りを認め、フェミニズムを「本気で学んだ」と言えるのでしょうか。歌詞についての”学び直し”も、所詮はビジネス上の損得勘定によるものにすぎなかったのではないか。まして、韓国は、日本以上に家父長制的な男尊女卑の考えが残る社会です。BTSもそんな風土で育った若者たちです。だから、何の疑いもなくあんな歌詞を書いたのでしょう。

その上、カタールは、出稼ぎ労働者に対する「カファラシステム」という事実上のドレイ制度さえ存在する国です。出稼ぎ労働者の多くはBTSと同じアジアから来た人たちです。BTSは、国連などでは立派な発言をしていますが、目の前の人権侵害に対しては一片のナイーブな感性さえ持ち合わせてないのか、と言いたくなります。

私は、『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)の中で、著者の朴裕河パクユハが、ベトナム戦争に参戦した韓国軍の兵士たちが「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」と書いていたのを思い出しました。念の為に言えば、それは、現地の女性に対する性暴力のことです。

経済的に発展して先進国の仲間入りをした今の韓国人たちは、発展途上のアジアの国の人々に対して、かつて日本人が自分たちを視ていたのと同じような目で視ているのではないか。そう思えてなりません。

朝日の記事で、小島慶子が開陳した“BTS論”は、どう見ても“買い被り”です。BTSは、ロッド・スチュワートやデュア・リパのような自分の言葉を持ってないのです。ただ持っているふりをしているだけです。「Love Myself」キャンペーンや国連でのスピーチも、世界進出のためのポーズだとしか思えません。それが、世界の市場を相手にする(せざるを得ない)K-POPと、「パラダイス鎖国」で完結するJ-POPの大きな違いなのです。

たしかに、世界的なイベントに呼ばれるだけでも凄いとは思いますが、それで無定見にホイホイ出かけていく姿を見て、(言い方は悪いですが)化けの皮がはがれたという気がしないでもありません。もしかしたら、(契約上)仕方なくジョングクひとりだけ行った、などと言ってまたぞろ詭弁を弄して言い訳するのかもしれませんが、私たちはもういい加減眉に唾して聞いた方がいいでしょう。
2022.11.19 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップボール


2022FIFAワールドカップ・カタール大会が11月20日に開幕します。大会が迫るにつれ、メディアは、グループリーグでスペイン・ドイツ・コスタリカと同じ「死の組」に入った日本は、果たして決勝トーナメントに勝ち進むことができるか(進めるわけがない)、勝機はどこにあるか(あるわけない)、という話題で連日(空しい)盛り上がりを見せています。というか、サッカー人気に陰りが出てきた中で、そうやって180億円とも200億円ともはたまた350億円とも言われる、放映権料(非公表)に見合うだけのテレビの視聴率を上げようと躍起になっているのでしょう。

しかし、今回のカタール大会においては、開催に疑問を持つ意見が多く、大会に際して、欧州のサッカー協会や選手たちから抗議の声があがっており、具体的に抗議の意思を示す流れも広がっているのでした。

と言うのも、カタール政府は、ワールドカップ開催に対して、約3000億ドル(43兆円)の巨費を投じて、スタジアムや宿泊施設、それに道路や鉄道などのインフラの工事が行ったのですが、イギリスのガーディアン紙によれば、開催が決定してからこの10年間で、工事に従事したインドやパキスタンやバングラデシュやフィリピンやネパールなどからやって来た出稼ぎ労働者6500人以上が、劣悪な労働環境の中で命を落とした、と言われているからです。

アムネスティの報告でも、中東特有の酷暑と長時間労働によって、多くの出稼ぎ労働者が犠牲になっていることを伝えています。

アムネスティ
カタール:酷暑と酷使で亡くなる移住労働者 悲嘆に暮れる母国の遺族

IOL(国際労働機関)も調査に乗り出して、2021年11月に報告書をまとめています。それによれば、カタール政府が運営する病院と救急サービスからワールドカップ関連の事案を収集した結果、2021年だけで50人の労働者が死亡し、500人以上が重傷を負い、さらに3万7600人が軽・中等の怪我を負っていると報告されています。

ロッド・スチュワートも、100万ドル(1億3000万円)でオファーされた開会式のイベントの出演を、カタールの人権問題を理由に断ったと言われています。また、デュア・リパも、「全人類に対する人権が認められるまで決してこの国を訪問しない」と公言し、出演を辞退したことをあきらかにしてます。挙句の果てには、カタール開催の際のFIFA会長であったゼップ・ブラッター前会長も、今になってカタールを開催地に選んだのは「間違い」だったと発言しているのでした。

カタールは、天然ガス資源に恵まれ、そのガスマネーにより中東でも屈指の金満国家です。気温が40度以上にも上がるような酷暑に見舞われるカタールは、とてもサッカーの大会に向いているとは思えませんが、FIFAが開催を決定したのは、ひとえに潤沢なガスマネーに期待したからでしょう。

カタールは人口290万人のうち、自国民は1割程度しかいなくて、あとは外国人で成り立っている国です。公務員も半分は外国人だそうです。でも、経済的には豊かな、それこそ成金のような国なので、外国から出稼ぎ労働者を積極的に受け入れています。というか、特権階級の10%の自国民の日々の生活のためには、現場仕事をする出稼ぎや移民の外国人労働者が必要不可欠なのです。

カタールに限らず中東には、出稼ぎ労働者を対象にした「カファラシステム」という制度があるそうです。「カファラシステム」というのは、雇用主が出稼ぎ労働者の「保証人」になる制度だと言われていますが、しかし、私たちが普段抱いている「保証人」のイメージとは違います。言うなれば、昔の「女郎屋」の主人と「女郎」のような関係で、雇用主が出稼ぎ労働者に対して在留資格の判断も含めて絶対的な権限を持ち、雇用主の許可がなければ、職場を変わることも帰国することもできないのです。そのため、雇用主による虐待や強制労働、人身売買の温床になっているという指摘があります。言うなれば、現代のドレイ制度です。その点では、日本の外国人技能実修生の制度とよく似ています。

また、カタールは厳格なイスラム国家ということもあって、同性愛などは法律で禁止されており、性的マイノリティの人間が内務省の予防保安局という組織に摘発され、拷問を受けるようなことが日常的に行われているそうです。カタールは、民主主義と相いれない警察国家でもあるのです。

先日も、大会アンバサダーを務める元カタール代表MFカリッド・サルマーンが、ドイツのテレビ局のインタビューで、性的マイノリティについて「彼らはここで我々のルールを受け入れなくてはいけない。同性愛はハラームだ。ハラーム(禁止)の意味を知っているだろう?」と発言し、さらに、同性愛が禁止の理由を問われると「私は敬虔なムスリムではないが、なぜこれがハラームなのかって?なぜなら、精神へのダメージになるからだ」と主張したというニュースがありました。

カタールW杯アンバサダーがLGBTへ衝撃発言…ドイツ代表も絶句「言葉を失ってしまう」

カタールで開催される今大会について、ヨーロッパ10カ国のサッカー協会が、共同でFIFAに対して、「カタールにおける移民労働者の人権問題改善のために行動を起こすよう求める書簡を出した」そうです。

ロイター
サッカー=欧州10協会、カタール人権問題でFIFAに要望

また、ヨーロッパ8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーすることを決定した、というニュースもありました。

欧州勢の主将がカタールW杯で差別反対を示す「OneLove」のキャプテンマーク着用へ

さらに抗議の声は広がっており、フランスではパリやマルセイユなど8都市が、パブリックビューイングを行わないと決定したり、大会に抗議して記事をいっさい掲載しないという新聞まで出ています。

デンマークの選手たちは、ユニフォームを黒にしてカタール政府に抗議する意志を表明しています。

オーストラリアの代表チームは、カタールの人権問題を非難するメッセージ動画を公開しています。その中で、彼らは「苦しんでいる移民労働者(の数)は単なる数字ではない」「性的少数者の権利を擁護する。カタールでは自らが選んだ人を愛することができない」と抗議の声を上げているのでした。

カタールにくすぶる人権問題 広がる抗議―W杯サッカー

オランダ代表の選手たちは、カタールで出稼ぎ労働者から直接話を聞いたそうで、「彼らは非常に過酷な条件下でスタジアム、インフラストラクチャ、ホテルなどの宿泊施設の建設に従事してきた。僕らはそこでのすべての活動を通じて、その問題を認識してきた。これらの条件を改善する必要があることは誰の目にも明らかだ」という声明を発表しているのでした。

オランダ代表がカタールの出稼ぎ労働者を支援! W杯の着用ユニフォームをオークションに

それに比べて、日本のサッカー協会や選手やサッカーファンの反応の鈍さには愕然とするしかありません。私は、ヨーロッパの8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーするというニュースを見て、「カッコいいいなあ」と思いましたが、日本の大半のサッカーファンはそういった感覚とは無縁のようです。ただ、勝つかどうかだけです。そのための痴呆的な熱狂を欲しているだけです。カタールの「カファラシステム」と日本の外国人技能実修生の制度がよく似ているので、むしろ“あっち側”ではないのかとさえ思ってしまうほどです。

スポーツライターの西村晃氏は、下記の記事の中で、日本の姿勢を「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)ではないか、と書いていました。

集英社新書プラス
スポーツウォッシング 第6回
カタール・サッカーW杯に日本のメディアと選手は抗議の声をあげるのか?

西村氏は、カタール大会の問題について、日本サッカー協会に直接問い質すべく、取材依頼も兼ねたメールを送ったそうです。そして、その回答がメールで送られて来たそうですが、日本サッカー協会の回答について、西村氏は下記のように書いていました。(協会の回答文は、上記の西村氏の記事でお読みください)

  一読、なんとも無味乾燥で当たり障りのない文言が連なった文章、という印象は拭いがたい。カタールで建設作業等に従事した移民労働者の死亡補償と救済の要求、同国での人権抑圧状況への抗議など、W杯参加国競技団体や選手たちが積極的な行動を起こしている一方で、日本や日本人選手は何らかの意志表示を行うつもりはあるのか、あるとすればどのような行動を取るのか、という質問に対する具体的な回答はなにも記されていない。
(上記記事より)


国際的な人権規約に基づいて各国の人権状況を審査している国連の人権に関する委員会が、先日、日本の入管施設で5年間に3人の収容者が死亡したことに懸念を示し(2007年以降で言えば、18人が死亡し、うち自殺が6人)、日本政府に対して施設内の対応の改善をはかるよう勧告した、というニュースがありました。しかし、そういったニュースに対しても、外国人技能実修生の制度と同様、日本の世論はきわめて冷たく、不法滞在の外国人なのだからそれなりの扱いを受けるのは当然だ、という声が多いのが実情です。国連の勧告も、人権派に付け入るスキを与えるもの、という声すらあるくらいです。

日本の「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)が、単なる”スポーツバカ”の話ではなく、巷の下衆な排外主義を隠蔽する役割を果たしていることも忘れてはならないのです。


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電通の正体


日曜日(11月13日)、テレビを点けたら、テレビ朝日で世界ラリー選手権(WRC)の第13戦、ラリージャパンの模様がハイライトで放送されていました。しかも、驚くべきことに、放送されたのは日曜日の21時から22時55分までのゴールデンタイムなのです。

ラリーの会場となったのは、愛知県の岡崎市・豊田市・新庄市・設楽町と、岐阜県の恵那市・中津川市にまたかる山間部で、言うまでもなくWRCに参戦し、しかも、豊田章男社長みずからがこのレースに人一倍入れ込んでいるトヨタ自動車の地元です。

レースは、11月10日(木)から13日(日)の日程で行われましたので、地元民にとってはレース中は生活道路が利用できず迷惑千万な話だったと思いますが、なにせ相手は地元では行政も配下に従える“領主”のような存在のトヨタ自動車なのです。黙って従うしかないのでしょう。

私は、テレビ朝日の放送に対して、玉川徹氏ではないですが、「当然これ、電通が入ってますからね」と言いたくなりました。いくら12年ぶりの日本開催とは言え、ラリーごときマイナーなモータースポーツをどうして地上波で放送するのか。しかも、日曜日のゴールデンタイムにです。常識的に考えても、電通とテレビ朝日の関係を勘繰らざるを得ません。

案の定、放送は前半はスタジオからお笑い芸人のEXITとヒロミの掛け合いによるラリーに関する初歩知識の紹介で時間を潰し、後半は、YouTubeで新車紹介を行っている自称「自動車評論家」とラリー経験者だとかいう俳優の哀川翔の二人が解説を務めていましたが、ライブではないハイライト(総集編)なので臨場感に欠け、スポーツニュースを延々見せられているような間延びした感は免れませんでした。どう考えても、ゴールデンタイムに放送するには無理があったように思いました。

海外では、広告代理店は「ハウスエージェンシー」と言って一業種一社が当たり前なのだそうです。しかし、日本では電通が同じ業種の会社でも複数担当しています。そのため、日本は、欧米のような「比較広告」がありません。タレントなどを使ったイメージ広告が主流です。

国鉄の分割民営化のとき、国鉄(当時)が電通に頼んでCI広告を大々的に打ったのですが、ウソかホントか、分割民営化に反対していた国労も電通に反対の意見広告を依頼していたという、笑えない話さえあるくらいです。

日本の広告宣伝費は、電通の資料によれば、2021年は6兆7998億円(前年比110.4%)でした。

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2021年 日本の広告費

広告宣伝費は、①新聞、雑誌、ラジオ、テレビメディアの「マスコミ四媒体広告費」、②「インターネット広告費」、③イベントや展示や交通、折込などの「プロモーションメディア広告費」の3つに分類されるそうです。それぞれの広告費は、以下のとおりです。

①マスコミ四媒体広告費 2兆4,538億円(前年比108.9%)
②インターネット広告費 2兆7,052億円(前年比121.4%)
③プロモーションメディア広告費 1兆6,408億円(前年比97.9%)

もちろん、コロナ禍で広告費は大きく落ち込んでいますが、ただ、東京五輪関係の需要があったので、2019年(6兆9381億円)より1400億円弱の落ち込みでとどまっています。電通が、パンデミック下であろうが、是が非でも東京五輪を開催したかったのは想像に難くありません。

電通の2021年12月期の売上高は約5.2兆円、連結収益は前期比15.6%増の1兆855億9200万円です。ただ、これは海外事業も含めた数字です。

国内における売上高のシェアですが、各社によって会計が日本基準と国際基準を採用してバラつきがあるため比較が難しいそうですが、日本の会計基準に合わせると、電通のシェアは60%にのぼるという説もあります。

『新装版・電通の正体』(週刊金曜日取材班)には、2000年頃の話で、「テレビ広告費の三八パーセント(七五〇〇億円)、新聞広告費の二〇パーセント(一九八〇億円)を取り扱っている」と書いていましたので、その頃よりさらにシェアを伸ばしているのかもしれません。

テレビ広告の単価の基準となる視聴率の調査を一手に引き受けるビデオ・リサーチも、電通が設立し、一時は電通本社の中にオフィスがあったくらいですから、野球の試合で選手と審判を同じチームがやっているようなものです。

『電通の正体』によれば、電通のコミッション(手数料)は15~20%だそうです。一業種一社が原則の海外の広告会社のコミッションは5%前後ですから、ここにも一社が同じ業種の複数のクライアントを担当する日本の“商習慣”の弊害が出ているように思います。そして、それが電通の寡占につながったのは間違いないでしょう。

そんな中、一時、大手企業が広告のコストを下げるために、「ハウスエージェンシー」をつくる流れがありました。トヨタ自動車がデルフェス、ソニーがフロンテッジ、三菱電機がアイプラネットと自社の広告会社を設立したのでした。

と言うことは、トヨタにはデルフェスがあるのに、今回の第13戦・ジャパンラリーの放送が行われたのはどうしてなのかと思ったら、何のことはない、デルフェスは2021年1月1日付で社名を「トヨタ・コニック・プロ」に変更し、トヨタ自動車と電通が出資する持株会社「トヨタ・コニック・ホールディングス」の傘下に入っているのでした。ゲスの勘繰りを承知で言えば、今のようなトヨタと電通の関係は、2005年の愛知万博からはじまったのかもしれません。

で、どうしてテレビ朝日の放送に、電通を連想したかと言えば、『電通の正体』に書かれていた、電通と「ニュースステーション」の関係を思い出したからです。

電通は「ニュースステーション」の広告を一手に引き受けていたそうです。つまり、「ニュースステーション」の広告枠を買い取っていたのです。

(略)番組枠まで買い切ってしまえば、売れる番組にするために番組の内容まで左右する力を持つのは当然だ。
「電通も異例ともいえるテコ入れを行っている。電通ラ・テ局(ラジオ・テレビ局)のテレビ業務推進部は企画開発段階から特別スタッフを投入。視聴者のニーズや動向の分析からCMのはさみ方による視聴率シュミレーションまで実施、その結果に沿って基本構想がまとめられていった」(ジャーナリスト・坂本衛『久米宏』論)
  電通が、スポンサーを手当てし、視聴者の分析を行ない、基本構想までつくっていたというのだ。
(『電通の正体』


ちなみに、当時、「ニュースステーション」の担当者だった電通社員は、のちにテレビ朝日の副社長に就任したそうです。

業界には「電通金太郎アメ説」というのがあるのだとか。それは、葬式から五輪まで、日本のイベントの裏側に必ず電通の影があることをヤユした言い方です。もうひとつ、「石を投げれば有名人の子息に当たる」という、コネ入社をヤユした言葉もあるそうです。

テレビ朝日と言えば、長寿番組の「朝まで生テレビ!」や(既に終了した)「サンデープロジェクト」の司会を務める田原総一郎が有名ですが、2004年、彼の妻の葬儀が築地本願寺で営まれた際、葬儀委員長を務めたのが電通の成田豊前社長(当時、のちに電通グループ会長、最高顧問に就任)だったそうです。

「葬式から五輪まで」と、イベントと名のつくものなら、片っ端から手がける電通が、有名人の結婚式や葬式を仕切ることは珍しくない。(略)
現在の電通本社は汐留にあるが、かつては築地にあったことから、「築地本願寺で大物の葬式が多いのは、電通本社が近いから」と冗談で言う関係者もいるほどだ。
(同上)


安倍晋三元首相の国葬には電通は直接関与してなかったみたいですが、関与したかどうかというより、玉川徹氏が電通の名前を出したこと自体が、既に地雷を踏む行為だったと言えるのです。ただ、玉川氏も、テレビ業界では(特にテレビ朝日では)電通がタブーであるのはよくわかっていたはずですので、あえて意図的に(反骨精神で)地雷を踏んだのではないか、という憶測も捨て去ることはできません。

テレビ業界における電通の力を物語る例として、(ちょっと古いですが)TBSの「水戸黄門」があります。私も記憶がありますが、「水戸黄門」の脚本のクレジットは「葉村彰子」という名前になっていました。しかし、「葉村彰子」などという脚本家はいなくて、脚本を書いていたのは、電通が株を持つ(株)C・A・Lという制作会社だったそうです。C・A・Lが「一話完結」「最後に印籠を出す」というマンネリパターンをつくり、長寿番組に育てたのです。また、NHKの番組を制作するNHKエンタープライズという会社がありますが、NHKエンタープライズもNHKと電通が共同で出資した会社だそうです。

もちろん、電通は、元役員(専務のち顧問)の高橋治之容疑者が主導した”汚職”でクローズアップされたオリンピックにも大きく関わっています。あの”汚職”と言われているものも、組織委員会の理事だった高橋治之容疑者が、オリパラ特別処置法(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法)の規定で、「みなし公務員」だったので(たまたま)受託収賄罪が適用されただけです。高橋自身も言っているように、ああいった”コミッション(手数料)ビジネス”は普段電通がやっていることなのです。

オリンピックがアマチュア規定を外し商業主義の門戸を開いたことで、オリンピックと深く関わるようになった電通は、五輪選手は五輪スポンサー企業のCMしか出ることはできないという縛りを設け、五輪選手の肖像権の管理をJOCで行うようにして、五輪開催とは別に、五輪選手を金づるにするシステムをつくったのでした。

  電通はオリンピックマークを企業が商業的に使い、その収益をオリンピック員会に集めるシステムも考え出した。だがオリンピックマークでは国際オリンピック委員会(IOC)の規定に抵触してしまう。そこで電通はおなじみとなった「がんばれ! ニッポン!」ブランドを作り出した。
(同上)


電通は、政治にも大きく関わるようになっています。小泉政権の「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」のようなキャッチフレーズを生み出したのも電通だと言われています。そういったワン・フレーズ・ポリティックスで小泉人気を演出したのでした。現在、日本の政治をおおっている世も末のような衆愚政治が小泉政権からはじまったことを考えれば、日本の政治のタガを外したのは電通だとも言えるのです。

玉川徹氏が地雷を踏んだ電通タブーについて、『電通の正体』は「あとがき」で次のように書いていました。

  日本にはマスコミタブー、つまりテレビ・新聞・雑誌などの報道機関が、取材の結果知りえた事実を報道することを忌避する、そもそも取材することを忌避するという自己矛盾を起こす取材対象がいくつかある。天皇制、被差別部落、芸能界、組織暴力団、創価学会、作家、警察などが思いつくだろう。これらに並んで記者や編集者の口にのぼるのが、日本最大の広告会社・電通という東証一部上場企業だ。電通と並びメガ・エージェンシーと呼ばれる業界第二位の博報堂については、タブーという認識は業界にほとんどないから、広告会社がタブーなのではなく電通がタブーということになる。
(同上)


昔、『噂の真相』も、「タブーなきスキャンダリズム」と謳っていました。どうしてタブーがないのかと言えば、『週刊金曜日』もそうですが、広告収入に依存してないからです。広告収入に依存しなければタブーがなくなるのです。その代わり、『週刊金曜日』が自嘲するように、薄っぺらなわりに定価が高い雑誌になってしまうのです。

玉川徹氏を執拗に叩いていた、週刊誌やスポーツ新聞があざとく見えたのも電通タブーゆえです。彼らは「電通サマのお名前を出すなど言語道断」とでも言いたげでした。その報道は、大衆リンチを煽り玉川氏の存在を抹殺しよう(テレビから追放しよう)としているかのように見えました。どこも経営的に青息吐息なので、そうやって下僕のように(!)「電通サマ」に忠誠を誓ったのでしょう。彼らにとって、「言論の自由」は所詮、「猫に小判」「豚に真珠」でしかないのです。

そもそも電通に関する本も極端に少ないし、ましてや電通を特集する雑誌など皆無です。週刊文春や週刊新潮も、電通を扱うことはありません。あり得ないのです。上を見てもわかるように、電通のシェアを調べようと思ってもほとんど情報がなく、あのように曖昧な書き方をするしかないのです。

電通は、戦前に設立された「日本電報通信社」という広告と情報を兼ねた通信社が母体です。その中で、広告部門が独立して電通になり、情報部門が今の時事通信社になったのでした。ネットの出現で、日本の広告業界は大きく揺さぶられていますが、電通が圧倒的なシェアで君臨する日本の広告業界は、このように今なおブラックボックスと化しているのでした。


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(2020年11月)


最近、マイクロプラスチックによる海洋汚染の問題をよく目にするようになりました。付け焼刃の知識ですが、マイクロプラスチックは、一次マイクロプラスチックと二次マイクロプラスチックの2種類に分けられるそうです。

一次プラスチックというのは、プラスチック製品に使用される「レジンペレット」と呼ばれるプラスチック粒や、製品の原材料として製造された小さなビーズ状のプラスチックのことで、たとえば、古い角質を削って肌をスベスベにする洗顔料や歯磨き粉などの原料であるスクラブ剤などに使われています。それらは、生活排水と一緒に下水道を通って海へ流れ出るのです。

マイクロプラスチックは、5ミリメートル以下のプラスチックのことを指すそうですが、微小なプラスチックは下水処理施設の装置も通りぬけてしまうので、いったん海に流れ出たマイクロプラスチックを回収するのは難しいのだとか。

二次マイクロプラスチックというのは、投棄されたビニール袋(レジ袋)やペットボトルなどのようなプラスチック製品が、紫外線によって劣化したり波に洗われて破砕され小さくなったものです。

自然界のプラスチックが分解されるには、100~200年、あるいはそれ以上もかかると言われており、その間に海洋生物の体内に取り込まれて、さらに食物連鎖で海藻や魚や貝などを介して人体に入ることになります。プラスチックに使われている有害性の添加物は、マイクロ化しても残留するそうで、人体に対する影響も懸念されているのでした。

また、マイクロプラスチックが、サンゴに取り込まれることによって、サンゴと共生する植物プランクトン(褐虫藻)が減少し、海の生態系のバランスが崩れる影響も指摘されています。

人体に対する影響では、消化器官の中に取り込まれるマイクロプラスチックは、一日程度体内に留まるだけで、便と一緒に排出されるのでそれほどの問題にはならないそうですが、他の器官に吸収されると影響は避けられないそうです。特に肺に入ると呼吸器系の疾患を生じると言われています。また、血液にも混入して体内の隅々にまで運ばれるそうで、それで人体に影響がないと言えばウソになるでしょう。

そのために、日本でもレジ袋の有料化がはじまりましたが、使い捨てプラスチック製品を減らすことは自然環境を守るための世界的な課題になっているのでした。

そこで、目に止まったのは下記の記事です。

GIZMODO(ギズモード)
ポリエステルの服は、着ているだけで大量のマイクロプラスチックを放出している…

記事によれば、「アクリル、ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維でできた衣服を洗濯すると、何十万ものマイクロプラスチック繊維が引きはがされ」生活排水とともに海に排出されるそうです。しかし、問題は洗濯だけではないのです。

また、研究チームは4つの衣服の複製を着たボランティアたちに、日常生活と同じような動きをしてもらった結果、わずか20分で1gあたり最大400個のマイクロファイバーが空気中に放出されることがわかりました。つまり、ポリエステル製の服を着て通常の生活を3時間20分続ければ、4,000個のマイクロファイバーが放出され、洗濯時に水を流すのと同じくらいの汚染が生じるというわけです。もっと大きなスケールで考えると、平均的な人は洗濯によって毎年約3億個のポリエステル繊維を放出し、ポリエステル製の衣服を着るとその3倍の繊維を放出してしまうらしい(略)。
(上記記事より)


登山用のウエアは、速乾性と透湿性にすぐれているという理由で、ポリエステルやポリウレタンが多く用いられています。

ただ、パタゴニアに代表されるように、「SDGs」「自然に優しい」を謳い文句に、同じポリエステルでも「リサイクル・ポリエステル」を使っているケースが多く、最近は他のメーカーもそれに追随しています。

しかし、リサイクルであろうが何であろうが、そもそもポリエステルを3時間20分着ているだけで4000個のマイクロファイバー(プラスチック繊維)を自然界に放出している(飛散させている)ことには変わりがないのです。

記事にあるように、「洗濯してもダメ、着てもダメ。いったいどうすれば…」と思ってしまいますが、少なくともアウトドア=自然が好き=自然を大切する気持がある、というのは幻想でしかないのです。欺瞞だと言ってもいいくらいです。

都岳連のハセツネカップの自然破壊はきわめて悪質ですが、でも、私たちも山の中にマイクロプラスチックをばらまきながら山に登っているという点では同罪かもしれません。

マイクロプラスチックを体内に取り込んでいるのは、海洋生物だけでなく、山に生息する野生動物も同じなのです。

高機能を謳い文句に数万円の大金をはたいて買ったウエアで、ハイカーたちがマイクロプラスチックを山中にばらまいているという現実。それで「山っていいなあ」とひとりよがりな自己満足に浸っているのです。

また、車のタイヤが地面と摩擦する際に飛び散るゴム片にも、多くのマイクロプラスチックが含まれているそうです。今のタイヤは、昔のような天然ゴムではなく合成ゴムです。合成ゴムというのは、石油を原料とするポリマー(高分子化合物)で、海に流入するマイクロプラスチックのうち、タイヤのゴム片によるものが28%を占めているという説さえあるそうです。最近はマイカー登山が当たり前になっていますが、林道を通って登山口まで車で行くのも、山中にマイクロプラスチックをばらまいていることになるのです。もちろん、沢もマイクロプラスチックで汚染されます。

こう言うと、「じゃあ、どうすればいいんだ?」と言うに決まっていますが、そう開き直る前に、自称「自然を愛する」ハイカーたちは、自分たちが自然に対して傲慢で欺瞞な存在であることをまず自覚すべきなのです。「そんなこと言ってたらきりがないじゃないか」と言われるかもしれませんが、たしかにきりがないのです。それくらい深刻なのです。

言うまでもなく、再び感染拡大がはじまっている新型コロナウイルスも、鳥インフルエンザも、自然界からのシッペ返しに他なりません。デジタル社会だ、5Gだ、AIだ、シンギュラリティだ、などと言っても、新型コロナウイルスによるパンデミックが示しているように、人間は自然に勝てないのです。人間が自然に対して傲慢である限り、これからもシッペ返しは続くでしょう。

登山もまた、「自然保護」とは対極にある行為なのです。だったら、せめてマイカーで行くのをやめたり、保護活動のために入山料を払ったりして、少しでも「自然保護」に協力すべきでしょう。

著名な登山家の一部も、身過ぎ世過ぎのためか、登山用品のメーカーと契約して、マイクロプラスチックの問題などどこ吹く風で、ポリエステルで作られた高級登山ウェアの宣伝に一役買っています。それは、今やカタログ雑誌と化した登山雑誌も同じです。そして、彼らは、エベレストやヒマラヤをプラスチックのゴミ捨て場にしているのです(下記記事参照)。

AFPBB News
エベレスト山頂もマイクロプラスチック汚染、登山具に由来か 研究

ポリエステルのような化繊より、メリノウールなどの天然繊維の方が「環境に優しい」と言われています。人寄せパンダの有名登山家や、節操のない俄かハイカーに過ぎないユーチューバーの商品レビューや、広告代理店と組んだ登山雑誌の特集などに惑わされるのではなく、できる限り天然素材のウエアに変えるのも選択肢のひとつでしょう。

誤解を怖れずに言えば、たとえば山菜取りで山に入って道に迷った高齢者でも、致命的な怪我を負わずに食糧や水さえ持っていれば、数日でも生き延びることができるのです。山菜取りが目的の高齢者は、必ずしも速乾性と透湿性にすぐれた高価な登山用のウエアを着ているわけではありません。アンダーウエアだって普通の綿の下着でしょう。厳冬期だったら別でしょうが、厳冬期以外の私たちが普段登る山のレベルでは、人寄せパンダの登山家や登山雑誌がすすめるような高価な登山ウエアは、言われるほど必要ではないのです。それより予備の食料と水(それとライトと雨合羽と山用のマッチ)を持って行く方がよほど大事です。

それにしても、「自然を大事にしましょう!」という掛け声だけは盛んですが、どうして日本の山はマイカー規制と入山料の徴収が進まないのか、不思議でなりません。
2022.11.13 Sun l l top ▲
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イーロン・マスクに440億ドル(約6兆5千億円)で買収されたTwitter社では、世界の従業員7500人の半分にあたる3700人に解雇が通告されたとして、大きなニュースになっています。

イーロン・マスクによれば、Twitter社は一日あたり約400万ドル(約5億9千万円)の赤字だそうです。

もちろん、アメリカのレイオフと日本のリストラを同列に論じることはできませんが、いづれにしても大ナタを振るったことはたしかでしょう。

Twitterが世界で7500人しか従業員がいなかったということも驚きでした。あれだけ世界中でサービスを展開していながら、僅かこれだけの従業員しかいなかったのです。しかも、イーロン・マスクによれば、半分は余剰人員だったということになります。

イーロン・マスクが言うように、一日に約400万ドルの赤字を垂れ流していたことが事実であれば、Twitter社の株主たちがイーロン・マスクに訴訟してまで買収を求めた理由が、今になればわかるのでした。しかも、売上げの大半は広告費で、広告頼りの危うい状態から抜け出せなかったのです。

ここに来て、ネット広告の市場が縮小しており、プラットホーマーはどこも四苦八苦しています。FacebookやInstagramを傘下におさめるメタも、今週中にも数千人規模に上る大規模解雇を始める予定だというニュースがありました。(追記:11月9日、メタは、全従業員の約13%にあたる1万1千人超を削減すると発表しました)

ネットの覇者であるGoogleも例外ではありません。Googleも広告に依存した体質から未だに脱皮できてないのです。Googleの持ち株会社のAlphabetは、10月25日に2022年第3四半期(2022年7月~9月)の決算を発表したのですが、それによれば、売上高が前年同期比6%増の690億9200万ドルだったにもかかわらず、純利益は27%減の139億1000万ドルと大幅な減益でした。中でもYouTubeの広告収入が2%減で、YouTube広告の売上高を開示するようになった2019年第4四半期以来初めての減収になったそうです。

子どもたちの「なりたい職業」の第1位はユーチューバーだそうですが、今後、ユーチューバーに対する広告費の分配も見直されるかもしれません。そのたびに「あこがれの職業」であるユーチューバーたちに「激震が走る」ことでしょう。

そもそも今回のTwitterの騒動を見てもわかるとおり、ユーチューバーという職業がいつまで存在できるかもわからないのです。デジタルの世界の10年は、もしかしたら従来の世界の50年にも、それ以上にも匹敵するかもしれません。時間の概念が異なると言ってもオーバーではないくらい、有為転変のスピードが速いのです。

IT化が進めば進むほど、雇用が削減されるのは理の当然です。IT化によって、どんな職種がなくなるか、どんな人たちが仕事を失うか、というような雑誌の特集をよく目にしますが、多くの人たちはそんな過酷な現実を強いられ、「労働力の流動化」なるバーゲンセールの商品台に乗せられて叩き売られるのです。岸田政権は、”成長分野”に「労働移動」するために「学び直し(リスキリング)」が必要だなどと、電通から吹き込まれたような借り物の用語を使って「新しい資本主義」の生き方を国民に説いていますが、日本のどこに”成長分野”があるというのでしょうか。岸田首相自身が所信表明演説で吐露したように、「新しい資本主義」と言ってもインバウンドの”爆買い”が頼りなのです。

さらに、Twitter社のレイオフから見えるものはそれだけではありません。社員が数千人の企業によって、「言論の自由」が担保されていたという、悪夢のような現実を私たちは改めて見せつけられたのです。

メディアが盛んに報じていますが、Twitterの「言論の自由」は、新しい経営者の手の平の上で弄ばれているのです。「言論の自由」はそんなものじゃない、「言論の自由」は守られるべきだ、とのたまう人たちもいますが、それはトンチンカンなお門違いな主張にしか見えません。

Twitterのサービスが開始された当初、Twitterで新しい社会運動がはじまるなどと言っていた左派リベラルも多くいました。一企業のCEOの匙加減でどうにでもなる「言論の自由」で社会運動もないでしょう。ITの時代に対して、労働者が為す術もないのと同じように、左派リベラルも為す術がないのです。

そもそも、140文字で何が表現できるというのでしょうか。「おまえの母さん、デベソ」と言い合っているようなものでしょう。デジタルネイティブの若者たちは、長い文章だとそれだけで拒否反応を示して、彼らの間では長い文章を書くこと自体が”害”みたいな風潮があるみたいですが、それで何を伝えられるというのでしょうか。丸山眞男が言う「タコツボ」とはちょっと意味合いが違いますが、彼らはタコツボの中で、最初からコミュニケーションを拒否しているようにしか思えません。

誰かの台詞ではないですが、革命はとどのつまり胃袋の問題なのです。大事なのは、右か左かではなく上か下かなのです。しつこいほどくり返しますが、現在いま、求められているのは”下”の政治です。”下”に依拠する政治なのです。「ツイッターデモ」も、元首相と同じように「やってる感」を出しているにすぎません。

日本は、先進国のふりどころか、そのうち「日本、凄い!」と自演乙することさえできなくなるでしょう。あれだけバカにしていた中国も、気が付いたら、”アジアの盟主”として、文字通り巨像のように私たちの前にそびえ立つまでになっていたのです。前も書きましたが、若者たちも中国発のファストファッション(SHEIN)に、「安い」「カッコいい」と言って群がるようになっています。そのうち”韓流”だけでなく、”華流”もブームになるでしょう。

とりとめのない話になりましたが、下記は2010年、Twitterが日本でサービスを開始してまだ間がないときに書いた記事です。ついでにご笑読いただければ幸いです。


関連記事:
ツイッター賛美論(2010.05.25)
2022.11.07 Mon l ネット l top ▲
Yahoo!ニュースにも転載されていましたが、「bizSPA!フレッシュ」に、下記のような記事が掲載されていました。

bizSPA!フレッシュ
週刊SPA!編集部
生魚の異臭が…東京屈指の“高級住宅街”で地上げトラブル「バブル期並みの悪質さ」

タイトルにもあるように、何だかバブルの頃を彷彿をするような話ですが、たしかに都心は至るところに地上げの跡があり、バブル時代に戻ったかのような光景も多く見られます。

大阪は東京ほどではないみたいですが、東京の都心では中古マンションも高止まりした状態が続いています。東京五輪が終わったら不動産バブルが弾けると言われていましたが、そうはなりませんでした。少なくとも価格面では「堅調」、それも「高止まり」の傾向さえあるのです。

もっとも、これは東京の都心や大阪の郊外の一部に限った話で、地方では価格は下降傾向にあると言われています。そのため、地方と東京・大阪の都市部の不動産価格がいっそう乖離しているのでした。

どうして都心の不動産価格がバルブ期並みに高騰しているのか。ひとつは、言うまでも金融緩和、それも「異次元」の金融緩和の影響です。「異次元」の金融緩和によって、東京都心部の駅前はどこも大規模な再開発が行われています。それは、バブル期もなかったような大掛かりなもので、渋谷の駅前が100年に一度の再開発と言われていますが、決してオーバーとは言えないほどです。しかも、100年に一度のような大規模開発は渋谷だけではないのです。

私は、横浜市の東急東横線沿線の街に10数年住んでいますが、引っ越してきた当初、駅の周辺の路地の奥には、昔ながらの古いアパートが点在していました。また、駅から少し離れると畑も残っていましたし、幹線道路沿いには、地元の小さな会社や商店などがありました。川魚問屋なんていうのもありました。さらに、このあたりは交通の便もいいので、大手企業の社宅や独身寮なども多くありました。

しかし、5~6年前くらいからことごとく壊されて、その跡地の多くにはマンションが建っています。しばらくぶりに前を通ると、風景が一変しているので驚くことがよくあります。

要するに、「異次元」の金融緩和で不動産業界にお札がばら撒かれているからでしょう。ただ、この30年給料が上がってないことを見てもわかるとおり、どんどん刷られたお札が一般庶民にまわって来ることはないのです。せいぜいが住宅ローンの金利が安くなり審査に通りやすくなるくらいです。

また、前に書いたように、日本には2000兆円という途方もない個人金融資産があります。その恩恵に浴する人たちとまったく縁もない人たちの間での格差も広がるばかりです。「マタイの法則」ではないですが、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」のです。そういった格差社会の現実が、不動産価格の「高止まり」にも反映されているのです。

もうひとつ忘れてならないのは、円安です。これはずっと以前より言われていたことですが、日本の不動産が中国本土の富裕層やアジア各地の華僑たちによって投資目的で買い漁られている現実があります。まして、今のように急激な円安になったことにより、彼らの需要がいっそう増して、上記のようなバブル期と見まごうような地上げを招いているのでした。

マンションに縁もゆかりもないネトウヨが、中国は遅れた国、三流国みたいに言っている間に、金満生活を謳歌する中国人の求めに応じて日本の不動産屋がなりふり構わず地上げに狂奔するようになっているのです。しかも、その資金をアベノミクスの名のもと、日本の金融当局が提供しているのです。

記事では、地上げの直接の要因として次のような指摘がありました。

「本来なら立ち退き料として住宅なら賃料の6~18か月分、事務所や店舗なら60~240か月分ほどの補塡を行い、退去期限は立ち退きに合意してから3か月~1年が一般的です。所有権が移ってまだ2か月余りでこの事態とは、悪質さを際立たせます」

「本物件を購入したのは、賃借人を退去させてマンションなどの用地としてデベロッパーに売却して利益を得るのが目的と思われます。土地建物の取得の際に3億円を金利4.5%で借り入れたとすると、彼らの支払う利息は月に100万円強。できるだけ早く立ち退きを完了させないと利益が毎日減少していくので、荒っぽくもなる。」

「賃借人は借地借家法で守られており、賃貸人がいくらお金を積んでも法的には立ち退かせることはできません。だから、悪質な行為に及ぶ例があるのです。賃借人を守るための借地借家法が、かえって地上げ屋を生むとはなんとも皮肉ですね」

(週刊SPA!編集部・生魚の異臭が…東京屈指の“高級住宅街”で地上げトラブル「バブル期並みの悪質さ」)


しかし、その背後に、“安い国ニッポン”の構図があることも忘れてはならないのです。

「異次元」の金融緩和で我が世の春を謳歌しているのは、不動産業界だけではありません。法人税が軽減されたことも相俟って、企業の内部留保は516兆4750億円(2021年)にものぼっているそうです。

法人税減税は、2011年38.54%だったのが、2013年に37%、そして、2018年には29.74%に引き下げられています。しかも、法人税をまともに納税しているのは、全企業の3割ほどにすぎないのだとか。納税するほど利益が出てないということもありますが、もうひとつは、大企業に対して、「資本金1億円以上の外形標準課税」や「受取配当金益金不算入制度」などのような減税や免税処置があるからです。「資本金1億円以上の外形標準課税」では、資本金1億円以上の大企業より、外形標準課税の対象外の資本金1億円以下の企業の方が、平均税率が高くなるという逆進性も生じており、大企業優遇は税制面から見てもあきらかなのです。

その一方で、消費税は、1988年12月に消費税法が成立して、1989年4月に3%でスタート、1997年4月5%、2014年4月8%、2018年10月10%と引き上げられています。

実際に1989年に消費税が導入されてから34年間で、国と地方を合わせた消費税の総額が476兆円であるのに対して、法人税の減税分が324兆円、所得税と住民税の減税が289兆円だったそうです。これが、消費税の増税分が法人税や所得税・住民税の減税の穴埋めに使われたのではないか、と言う根拠になっているのでした。

2012年、野田内閣が、民主党政権成立時の公約を反古にして、自民党と公明党の間で、「税と社会保障の一体改革」の三党合意を交わして、消費税増税に舵を切り、民主党政権は自滅したのですが、そのときに、野田内閣が提出して成立した法案は、消費税率を2014年に8%、15年に10%に引き上げるというものでした。

ちなみに、三党合意の社会保障の部分では、以下の3点が確認されていました。

①今後の公的年金制度、今後の高齢者医療制度にかかる改革については、あらかじめその内容等について三党間で合意に向けて協議する。
②低所得高齢者・障害者等への福祉的な給付に係る法案は、消費税率引上げまでに成立させる。
③交付国債関連の規定は削除する。交付国債に代わる基礎年金国庫負担の財源については、別途、政府が所要の法的措置を講ずる。

しかし、三党合意とは裏腹に、社会保障の改革はおろか、社会保障費の増大に対して、税収による補填は僅かな伸びしかなく、その多くは保険料の引き上げで賄っているのが現実です。

日本共産党の関連団体と言われる民商(民主商工会)のサイトによれば、消費税導入以前の1988年と消費税が10%になった2020年を比較すると、国民健康保険料(1人平均)は5万6372円から9万233円に引き上げられ、医療費は1割負担が3割負担に、国民年金の保険料(月額)は7700円が1万6610円と2倍以上も上がっているそうです。また、年金の支給開始年齢の繰り下げもはじまっています。所得に対するいわゆる「租税公課」の割合は、4割を優に超えており、重税国家と言っても過言ではないのです。

ちなみに、横浜市は、住民税と国民健康保険料がバカ高いので有名ですが(それと職員の給与が高いのでも有名)、私のような独り者のその日暮らしでも、介護保険料と合わせた国民健康保険料は(年間10回分割で)毎月3万円近く引き落とされています。引っ越してきた当初から比べたら、2倍どころか3倍くらい上がっています。だからと言って、もちろん収入が3倍上がっているわけではないのです。毎年春先に国民健康保険料と住民税の確定金額のお知らせが届くと、目の前が真っ白になって血の気が引くくらいです。

これでは、「税と社会保障の一体改革」という三党合意は何だったのかと言わざるを得ません。自公もひどいけど、旧民主党はそれに輪をかけて無責任でひどいのです。

さらに、ここにきて政府の税制調査会のメンバーから、消費税増税の声も漏れ伝わるようになっています。立憲民主党も、新しい執行部に野田政権で副総理を務めた岡田克也氏や財務相を務めた安住淳氏が入ったことで、(自民党に歩調を合わせて)増税路線の布陣を敷いたんじゃないかという指摘があります。また、前代表の枝野幸男氏が、2021年10月末の衆院選の公約で、新型コロナウイルス禍への対応として「時限的な5%への消費税減税」を掲げていたことを「間違いだった」「二度と減税は言わない」と発言したことが物議を醸しているのでした。

まったく懲りないというか、こういう野党が存在する限り、自公政権は左団扇でしょう。そして、日本はとどまるところを知らず安い国として凋落し食い散らかされるのです。ましてや、国防費の増大や敵基地先制攻撃など、片腹痛いと言わねばなりません。そういう妄想と現実をはき違えたオタクのような発想も、国の経済を疲弊させ、さらに凋落を加速させるだけでしょう。

追記:(11/09)
元朝日の記者の鮫島浩氏は、8日、自身のYouTubeチャンネルで、「野田佳彦首班で大連立!宏池会と立憲民主党を財務省がつなぐ『消費税増税内閣』急浮上!!」という動画を上げていました(下記参照)。上で見たように、野田佳彦は旧民主党政権の獅子身中の虫だったのですが、松下政経塾出身の彼がとんでもないヌエ、食わせものであることは今さら論を俟ちません。3年間選挙がないことをチャンスとばかりに、与野党一致で増税に突き進むシナリオが水面下で進んでいると言うのです。もし事実なら、まさに立憲民主党の正体見たり枯れ尾花みたいな話でしょう。今まで「立憲民主党が野党第一党である不幸」をくり返し言って来ましたが、もういい加減、引導を渡すしかないのです。

SAMEJIMA TIMES
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2022.11.06 Sun l 社会・メディア l top ▲
ピストルと荊冠


2013年12月19日、「餃子の王将」を運営する「王将フードサービス」の社長・大東(おおひがし)隆行氏が、銃撃されて殺害された事件に関して、10月28日、福岡刑務所に服役中の田中幸雄容疑者が、殺人の容疑で京都府警に逮捕されました。これにより、「餃子の王将」社長射殺事件」は、事件から9年目にしてようやく「実行犯の逮捕」という新たな局面を迎えたのでした。

田中幸雄容疑者は、北九州の小倉に本部を置く工藤会の二次団体石田組の幹部です。どう見てもヒットマンとしか思えず、「王将フードサービス」と北九州のヤクザ組織との間をつないだのは誰なのか、関心が集まっているのでした。

工藤会は、2012年の改正暴対法によって、「特定危険指定暴力団」に指定された全国で唯一の暴力団で、それこそ泣く子も黙るような武闘派の組織として知られています。

私も子どもの頃、「小倉は怖い」という話を母親から聞いたことがあります。母方の祖母は福岡の若松か戸畑だったかの出身で、母親も祖父の仕事の関係で北九州で生まれたのですが、親戚を訪ねて行ったのか、私が中学生の頃、母親が叔母とともに北九州に出かけたことがありました。

そして、帰って来て、父親と話をしているのを私は横で聞いていたのですが、小倉駅で電車を待っていたとき、駅にヤクザみたいな男たちがたむろしていて怖かった、小倉があんな怖いところとは知らなかった、と言っていました。

もちろん、工藤会なんて名前は知る由もありませんが、私は何故かそのときの話を今も忘れずに覚えているのでした。後年、赴任先の街でたまたま入ったスナックに小倉出身の女性がいて、その話をしたら、彼女も小倉はヤクザが跋扈する怖い街だ、と言っていました。

実際に工藤会は、暴力団排除の運動をしていた市民を襲撃するなど、一般市民や企業を標的にした数々の暴力事件を起こしています。工藤会に“及び腰”と言われた福岡県警も、改正暴対法や警察庁の後押しなどもあって、2014年に16年前の元漁協組合長殺害容疑でトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長の逮捕に踏み切り、組織の壊滅に向けた“頂上作戦”を開始したのでした。

ちなみに、大東社長が射殺された翌月(2014年1月)には、16年前に殺害された元漁協組合長の実弟で、兄のあとに漁協組合長を務めていた人物が、同じように早朝、ゴミ出しするために家を出たときに何者かにようって射殺されています。その捜査の過程で、16年前の兄の事件で、野村悟総裁と田上不美夫会長の関与(指示)が判明したので逮捕したと言われています。でも、何だかあわてて逮捕したような感じもしないでもありません。

尚、殺害された漁協組合長の兄弟に関しても、その後も孫の歯科医や息子の会社の女性従業員が襲われ刺傷するなど、執拗な攻撃が加えられているのでした。福岡県警はどこで何をしていたのかというような話なのです。

工藤会が行った事件については、ウィキペディアに詳しく書かれていますが、90年代後半以降の主な事件を列記するだけでも下記のようになります。

工藤会が博徒として結成されたのは戦前ですが、工藤会が暴力団として狂暴化したのは1960年代に山口組との抗争を経てからだと言われています。しかも、抗争相手の山口組系の組織とは、のちに稲川会の会長の仲介で合併しているのでした。工藤会は、カタギであろうが誰であろうが見境がなく、野村総裁の局部を大きくする手術をした病院の看護婦や、暴力団担当の元刑事まで襲われているのでした。それで怯んだのか、福岡県警が工藤会に“及び腰”だったのは誰が見てもあきらかでした。

1988年
・みかじめ料の要求を断った健康センターに殺鼠剤を撒布。150人が中毒症状。
1988年
・在福岡中華人民共和国総領事館を散弾銃で攻撃。
1988年
・福岡県警元暴力団担当警部宅を放火。
1994年
・パチンコ店や区役所出張所など17件前後銃撃。
1998年
・港湾利権への介入を断られた報復で北九州元漁協組合長を射殺。
2000年以後
・暴力団事務所撤去の運動に取り組んでいた商店を車で襲撃。
・暴力追放を公約に掲げて当選した中間市長の後援市議を襲撃。
・警察官舎敷地内の乗用車に爆弾を仕掛ける。
・九州電力の松尾新吾会長宅に爆発物を投擲。
・西部ガスの田中優次社長宅への手榴弾投擲、及び同社関連会社と同社役員の親族宅を銃撃。
・暴力団追放運動の先頭に立つクラブに手榴弾を投擲。
・安倍晋三の下関市の自宅と後援会事務所に火炎瓶を投擲。
・大林組従業員ら3名を路上で銃撃。
・トヨタ自動車九州の小倉工場に爆発物を投擲。
・工藤会追放運動を推進していた自治会長宅を銃撃。
・工藤会追放運動を推進していた建設会社役員を射殺。
・中間市の黒瀬建設社長を銃撃。
・清水建設従業員を銃撃。
・元工藤会担当県警警部を銃撃。
他にみかじめ料を断ったパチンコ店や飲食店などを襲撃多数。
(Wikipedia参照)

この中で、今回逮捕された田中幸雄容疑者が関係したのは、2008年1月に、大林組従業員ら3名が乗っている車を銃撃した事件です。しかし、動機は不明で、判決文でもそう書かれています。田中容疑者が口が堅いと言われるのも、そのあたりから来ているのでしょう。田中容疑者は、同事件の実行犯として逮捕され、懲役10年の判決を受けて福岡刑務所に服役していました。ただ、同事件でも、逮捕されたのは事件発生から10年後でした。

田中容疑者は、福岡の大牟田出身で、地元の高校から田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の主人公が通った、原宿の表参道の先にあるキリスト教系のオシャレな大学に進学。大学を中退したあといくつかの会社に勤め、30代半ばまではカタギのサラリーマンだったそうです。そして、仕事上のトラブルに巻き込まれたときに、工藤会に助けて貰ったことでヤクザの道に入ったと言われています。

また、北九州元漁協組合長を射殺した事件等で、殺人や組織犯罪処罰法違反などの罪に問われたトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長に対して、福岡地裁は2021年8月に、それぞれ死刑と無期懲役を言い渡しています。その際、退廷する野村総裁は、裁判長に向かって「あんた後悔するよ」と捨て台詞を吐いたそうです。

田中幸雄容疑者に関しては、当初から捜査線上にのぼっていたと言われていますが、逮捕に至るまで9年の歳月を要したのはどうしてなのか。事件の背後に、私たちがうかがい知れない”闇”が存在していたような気がしてなりません。

キャスターの辛坊治郎氏は、事件が起きてすぐに京都府警から事情聴取されていたそうで(実際は情報提供を求められただけのようですが)、ラジオ番組で事件の不可解さについて、次のように語っていました。

Yahoo!ニュース
ニッポン放送
「王将」社長射殺事件 辛坊治郎が事情聴取を受けていた「容疑者とは言われませんでしたが……」

それにしても、謎だらけの事件です。今回逮捕された暴力団幹部が事件に関わっていたという見方はかなり初期の段階からありました。殺害現場近くでたばこの吸い殻が発見され、 DNA型鑑定が出ていたんですよ。なぜ、そんなはっきりとした証拠があるにもかかわらず、そのルートを洗っていかなかったのだろうと不思議です。
(略)
いずれにしても、容疑者がもっと早く逮捕されていてもおかしくない事件です。ここまで時間がかかったことに、何かものすごく深い闇のようなものを感じています。
(上記記事より)


事件の背景については、東証一部上場(移行)を前にして会社が設置した第三者委員会が、2016年3月に公表した調査報告書に注目が集まっています。調査報告書は、下記の毎日新聞の記事に書いているとおり、当初は東証一部上場(13年7月)後の13年11月に公表されるはずでした。しかし、何故か公表されず、役員たちにも報告書の内容が共有されなかったそうです。そして、その1ヶ月後の12月に大東社長が殺害されたのでした。調査報告書が公表されたのは、さらにそこから3年4か月後でした。このように調査報告書のの公表ひとつをめぐっても、実に不可解なのです。

調査報告書によれば、創業家と福岡の企業グループとの間で、取締役会にも通さない不適切な取引きが行われ、それは1995年から2005年までの10年間に総額260億円にものぼり、そのうち170億円が回収不能になっているというのです。その多くは不動産取引で、企業グループから市場価格とかけ離れた不当に高い金額で購入し、大きな売却損を出して処分するということをくり返していたのです。調査報告書は、「福岡の企業グループは反社ではない」と書いていましたが、やり口は反社のそれと同じです。

そのため、「王将フードサービス」は業績不振に陥り、三代目の社長だった創業者の加藤朝雄氏の長男と、財務担当の専務だった次男が事実上のクーデーターで退陣し、創業者の義弟の大東氏が社長に就任したのでした。

「王将フードサービス」は東証一部上場をめざしていましたが、取締役会にもはからない不適切な取引きによって、「企業経営の健全性」や「企業のコーポレート・ガバナンスおよび内部管理体制の有効性」といった上場要件(審査基準)を満たせず、早急な企業体質の改善が求められていました。そのため、大東社長がみずから表に立って、福岡の企業グループとの関係を精算しようとした矢先に殺害されたのでした。

そのあたりの経緯について、毎日新聞が具体的に書いていました。

毎日新聞
王将社長射殺 不適切取引相手の企業グループ  関係者を参考人聴取

  00年4月に社長に就任した大東さんは当初、企業グループとの債権回収の交渉を、創業者の親族に任せていた。しかし経営危機に直面し、03年7月ごろからは自身が直接交渉。14件については清算を終えたが、企業グループとの関係を解消しきれなかったという。

  これらの内容は、同社が東証移行を前に設置した再発防止委員会が13年11月にまとめた報告書に記されたが、公表はされなかった。大東さんが殺害されたのは、その1カ月後だった。
(上記記事より)


記事によれば、京都府警の捜査本部は、田中容疑者の逮捕に伴って、不適切な取引きをしていた「企業グループを経営していた70代の男性から、参考人として任意で事情を聴いたことが判明した」そうです。

しかし、ここに至っても、メディアは「福岡の企業グループ」という言い方をするだけで、社名等いっさいあきらかにせず、奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。それは、安倍元首相銃撃事件のあと、旧統一教会のことを「ある宗教団体」とか「特定の宗教団体」と言っていたのと似ています。

一方で、リテラが、2015年に具体的に企業名や経営者の名前を出して記事にしており、翌年にも第三者委員会の調査報告書の発表を受けて、その記事を再掲しています。

リテラ
「餃子の王将」が調査報告書でひた隠しにする260億円不正取引の相手は“部落解放同盟のドン”の弟だった!

「部落解放同盟のドン」というのは、1982年から1996年5月に肝不全で亡くなるまで部落解放同盟の4代目の中央執行委員長を務めた上杉佐一郎氏で、その「弟」というのは、上杉佐一郎氏の異母弟の上杉昌也氏です。

同和対策事業特別措置法が10年の時限立法として制定されたのが1969年で、その後何度が延長され(法律の名称も変わって)、終了したのが2002年です。33年間で約15兆円の国家予算が費やされたと言われています。

部落解放同盟が、最も活発に活動していたのもその期間です。

上杉昌也氏自身は部落解放運動には直接関係してなかったようですが、彼の事業に「部落解放同盟のドン」と言われた上杉佐一郎氏の威光がはたらいていたのは想像に難くありません。同対法の終了と関係あるのか、事業の多くは2006年から2011年にかけて破綻しています。

警察の捜査が遅々として進まなかったのも、大手メディアが未だに奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのも、「同和タブー」があるからではないか。そう思えてなりません。

創業者の加藤朝雄氏が、1967年12月に「餃子の王将」を創業したのは京都四条大宮ですが、福岡(飯塚市)出身だった加藤氏は、同郷の上杉兄弟と1977年頃知り合ったと言われています。そして、全国展開する上での資金300億円は上杉佐一郎氏が調達した、と言われているのです。

私は、田中幸雄容疑者の逮捕を受けて、部落解放同盟を舞台にした「飛鳥会事件」を扱った、角岡伸彦氏の『ピストルと荊冠』(講談社)を本棚の奥から引っ張り出して読み返したのですが、何だか両者は共通したものがあるような気がしてなりませんでした。と同時に、未だに「同和タブー」が生きていることに、あらためて驚きを禁じ得なかったのでした。

『ピストルと荊冠』は、「<被差別>と<暴力>で大阪を背負った男」とサブタイトルが付けられているように、山口組の直参組織である金田組の組員でありながら、40年にわたり部落解放同盟の支部長を務め、同和対策事業特別措置法による事業で利権をむさぼってきた小西邦彦(故人)の半生を取り上げた本です。

彼は、同和対策事業で同和地区に建てられた解放会館を根城に、運動団体(部落解放同盟)と財団法人(飛鳥会)と社会福祉法人(ともしび福祉会)のトップを務め、同会館に派遣された市役所職員や三和銀行の職員をあごのように使って、文字通り巨万の富を築いて金満生活を送っていたのでした。また、その一部は所属する金田組に上納されていました。

親しい親分がピストルを隠すために三和銀行の貸金庫が利用できるように便宜をはかったり、山口組の内部抗争の煽りを受けて、解放会館の近くに建てた自社ビルに銃弾が撃ち込まれる、ということもありました。また、山口組4代目組長の竹中正久が跡目争いで射殺された現場になった愛人のマンションは、小西の名義でした。

また、みずからが運営する財団法人の職員として知り合いの組から派遣された元組員を採用したり、知り合いの山口組系の元組長ら3人が社団法人大阪市人権協会の下部組織である飛鳥人権協会の職員であるように装い、3人とその家族分の健康保険証7枚を取得する便宜をはかっていました。3人は、何と1977年から1992年まで健康保険証の更新を続けていたそうです。どうしてそんなことができたのかと言えば、小西が飛鳥人権協会の顧問だったからです。現職のヤクザが人権協会の顧問を務めていたという冗談みたいな話が、当時の大阪では公然とまかり通っていたのです。小西邦彦はのちに詐欺の疑いでも逮捕されています。

同和対策事業関連の予算は、3分の2は国が補助して残りの3分の1は自治体が負担するようになっていましたが、大阪市は同和対策事業特別措置法が続いた33年間で、同和関連事業に6千億円を注いでいます。そのうち「3割強」が建設関連予算だったと言われ、その大半は、部落解放同盟大阪府連が設立した大阪府同和建設協会に加盟する業者が請け負っていました。

小西は、飛鳥地区における業者の選定や工事費の上前をはねることで「少なく見積もっても数億円」を懐に入れた、と『ピストルと荊冠』は書いていました。また、西中島の新御堂筋の高架下を、中高齢者雇用対策ならびに老人福祉対策の一環として駐車場として利用したいという小西の申し出に対して、大阪府は同和対策事業の枠外で市開発公社に占有許可を出し、小西がトップを務める飛鳥会に管理委託させたのでした。それにより、西中島駐車場も小西の懐を潤すことになります。

  駐車場の売上げは一日平均六十万円あった。一年間で二億二千万円である。そのうち地代や人件費を差し引いた七千五百万円が小西の懐に入った。
(『ピストルと荊冠』)


同書によれば、18年間で「少なくとも六億円を着服している」そうです。

もちろん、同和対策を利用した土地転がしで億単位の利益も得ていました。本ではそのカラクリについて、不動産業者が次にように証言しています。

「小西が支部長になってから、ここに道ができる、ここには住宅が建つという具合に(地区内の事業計画が)わかるようになった。最初に小西は地区内の土地を千七百万円で買(こ)うた。それを転売したら三千万円くらいで売れた。そこからあいつは金の味を覚えたわけや。
(同上)


解放会館ができた当初、同館には7名の大阪市の職員が常駐していたそうです。小西は、その人事権を握っているだけでなく、本庁の人事や採用にも影響力を持っていたと言われています。実際に、小西の実兄や甥、姪の夫など身内が大阪市に採用されているのでした。

もちろん、それらの収入は申告していません。「同和」というだけで何のお咎めもなかったのです。それどころか、彼の「人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った」(同上)のでした。

彼の金満ぶりについて、『ピストルと荊冠』は次のように書いていました。

  支部長に就任して間もないころは、廃車寸前の高級国産車のトヨタ・クラウンを知り合いから二十万円で購入し、乗り回していた。
(略)
  金回りがよくなると、クラウンをアメリカの大型高級車・リンカーンコンチネンタルに乗り換え、専属の運転手を据えた。
  住居は、一九五〇年代はバラックに、一九六〇年代後半には同対事業によって完成したばかりの3DKの団地型の市営住宅(五十平方メートル)に住んだ。一九七〇年代には奈良市内に自宅を建築したが、その後、妹に譲っている。
  一九八〇年代初めに飛鳥会事務所で働いていた事務員との間に二人の娘をもうけると、同じく奈良市内に三億円をかけ、五百五十平方メートルの敷地に地上三階地下一階の豪邸を建てた。電気代だけで月に一ヶ月二十万円もかかったという。

(略)大人になった長男が「車が欲しい」と言うと、「ん、車? ほな買おうか」と千二百万円のベンツを買い与えた。長男は(引用者:障害があって)運転ができないため、運転手兼介助者は、小西の伝手で大阪市に採用された男が務めた。


私も若い頃、浄土真宗の集まりで、部落解放同盟の末端の活動家たちと話をしたことがありますが、彼らは旧統一教会の信者と同じで、純粋に真面目に解放運動に身をささげていました。そのとき会った小学校の若い女性教師は、狭山事件の裁判の抗議のために、同和地区の子どもたちが「狭山差別裁判糾弾」のゼッケンをつけて登校する、いわゆる”ゼッケン登校”について、「子どもたちの気持がわかりますか?」と涙ながらに語っていました。しかし、「裏切られた革命」ではないですが、上の方はこのようにデタラメを究め腐敗していたのです。もちろん、「飛鳥会事件」はその一例にすぎません。

同対法が終了したのが2002年で、小西邦彦が業務上横領と詐欺の疑いで大阪府警に逮捕されたのが2006年です。小西だけでなく、多くの同和団体に捜査が入り、摘発されています。それは、裏を返せば、それまで同和団体が同対法の下でお目こぼしを受けていた、野放しだったとも言えるのです。

しかし、小西邦彦が一方的に同和対策を食いものにしたとは言えないのです。著者の角岡伸彦氏も、同書で次のように書いていました。

  小西は、運動団体と財団法人、社会福祉法人のトップを長年務めてきた。小西の一声で公共事業が進展し、様々なトラブルが解決した。人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った。
(同上)


言うなれば、持ちつ持たれつだったのです。

話を戻せば、「餃子の王将」も”鬼の研修”などに象徴されるように、従業員にとって「ブラック」な会社だったという声もあります。私もYouTubeにアップされていた、大東氏が社長で現社長の渡邊直人氏が常務だった頃の店長研修の動画を観ましたが、たしかにそう言われても仕方ないように思いました。実際に、2013年には、「餃子の王将」はブラック企業大賞にノミネートされているのでした。

そんな会社の創業家と、「差別解消」や「人権尊重」を謳い、一時は三里塚闘争にも動員をかけるほど新左翼にも接近したりと、きわめてラジカルな運動を展開していた部落解放同盟の幹部が親密な関係を持ち、莫大な金銭を伴う不適切な取り引きを行っていたのです。その構図は「飛鳥会事件」とよく似ています。

社長射殺事件では、それまで何度が商売に失敗している創業者が、どうして部落解放運動のドンと言われた上杉佐一郎の一族と関係を持つに至ったのか。そして、どうして上杉佐一郎氏の力で、300億円の資金を調達して、商売を成功に導くことができたのか。それが事件のポイントのように思います。

「王将」は、上記の第三者委員会が公表した調査報告書で示されているように、上杉兄弟との関係を絶つことができなかったのは事実なのです。さらに、そこに九州一の武闘派のヤクザ組織工藤会が絡んできたのです。創業家と上杉兄弟と工藤会がどういう関係にあったのか、まだ多くの”謎”が残っているのでした。もっとも、”謎”にしたのは工藤会に腰が引けていた警察だという声もあります。初動捜査の遅れなどと言われていますが、たしかに、どの事件も”謎”だらけで、容疑者の逮捕までえらく時間がかかっているのでした。

田中容疑者の逮捕を受けて、産経新聞は、匿名ながら次のような記事を載せていました。警察から得た情報なのか、上杉兄弟と「餃子の王将」との関係について、結構踏み込んだ内容が書かれていました。

産経ニュース
㊦背景に200億の「代償」?  事件つなぐキーマンX

  平成5年6月に死去した王将の創業者、加藤朝雄氏の社葬に、友人代表として参列するXの姿があった。福岡県を中心にゴルフ場経営や不動産業を手掛けていたXは、王将の取引先で作る親睦団体「王将友の会」の設立にも尽力。王将が全国に店舗を拡大していく際、トラブルの解決に暗躍していた。

  Xの兄はある同和団体の「ドン」と呼ばれ、X自身も「政財界や芸能界に顔が広かった」(知人)という。28年3月、王将フードサービスが公表した不適切取引に関する第三者委員会の報告書などによると、同じ福岡県出身の朝雄氏と昭和52年ごろに知り合い、交流を始めた。

  王将は全国チェーンへと急成長を遂げたが、各方面に影響力を持つXの水面下での動きが支えになったことは否定できない。各地の出店を支援し、平成元年に大阪・ミナミの店舗で起きた失火では、建物の所有者が死亡した問題の解決も仲介したとされる。
(上記記事)


また、上記のリテラの記事でも取り上げられている一橋文哉氏の『餃子の王将  社長射殺事件  最終増補版』(角川文庫)では、同氏について、「U氏」というイニシャルでその人物像を次のように書いていました。長くなりますが、その箇所を紹介します。尚、本が書かれたのが2014年で、加筆修正されて文庫に収められたのが2016年ですので、一橋氏は、実行犯について、中国人ヒットマンの存在をほのめかしていました。(文中事実誤認の部分もありますが、そのまま掲載します)

  U氏は「王将」創業者・加藤朝雄氏と同じ福岡県出身で、京都市内で不動産関係会社・K社を経営している。
  K社はバブル経済全盛期に、旧住宅金融専門会社(住専)の大手「総合住金」から百三十二億円の融資を受け、完全に焦げつかせたことで知られる会社だ。「総合住金」多額融資先の第四位にランクされ、一時は「問題企業」として金融業界からマークされていた。さらに、京都・闇社会の「フィクサー」とも「スポンサー」とも言われた山段芳春さんだんよしはる会長(九九年三月に死亡)率いるノンバンク「キュート・ファイナンス」からも二百数十億円を借り入れ、これも焦げつかせたという不動産業界では、“いわく付きの人物”である。
  何しろ、その人脈ときたら、戦後最大の経済犯罪である住銀・イトマン事件の主犯として知られる許永中きょえいちゅう・元被告(韓国移送後に仮釈放)はじめ、山口組や会津小鉄あいずこてつ(ママ)など暴力団幹部や、その系列の企業舎弟、政治団体代表ら多彩で、そうした闇社会との交流を活かして、さまざまなアンダーグランドの仕事を請け負い、やり遂げてきた人間なのだ。
  U氏はもともとは、京都市に拠点を置く同和系団体の中心人物(故人)の実弟(ママ)という立場だった。そして、山口組三代目田岡一雄たおかかずお組長が亡くなった後、その遺志を継いで美空みそらひばりをはじめ大物歌手や芸能人の「タニマチ」として応援してきたことでも知られている。
(一橋文哉『餃子の王将  社長射殺事件  最終増補版』・角川文庫)


事件の解明はやっと入口に立ったばかりです。ただ、事件の解明とは別に、ここでも、「飛鳥会事件」であきらかになったような、部落解放運動の腐敗や堕落が垣間見えるのでした。

部落解放同盟と対立する日本共産党は、同和対策事業特別措置法を「毒まんじゅう」と言っていました。当時は「何と反動的な見方なんだ」と思っていましたが、今にして思えば、当たらずといえども遠からじという気がしないでもありません。


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2022.11.01 Tue l 社会・メディア l top ▲
昨夜、アメリカのペロシ下院議長宅が襲撃され、夫のポール氏が怪我をして病院に搬送された、というニュースがありました。

毎日新聞
ペロシ米下院議長の自宅襲撃され、夫搬送 襲撃者の身柄拘束

ペロシ氏は、筋金入りの対中強硬派で、先日の台湾訪問で米中対立を煽った(その役割を担った)人物です。その際、日本にも立ち寄っているのですが、まるでマッカーサーのように、羽田ではなく横田基地に米軍機で降りているのでした。ちなみに、トランプが訪日した際も横田基地でした。「保守」を名乗るような右翼と一線を画す民族派は、そのやり方を「国辱だ」として抗議していました。

私は、このニュースを見て、『週刊東洋経済』10月29日号の「『内戦前夜』の米国社会   極限に達する相互不信」という記事を思い出しました。まだ犯人の素性や背景等があきらかになっていませんが、「内戦前夜」と言われるほど分断が進むアメリカを象徴している事件のように思えてならないのでした。

『週刊東洋経済』の同号の特集には、「米中大動乱  暴発寸前!」という仰々しいタイトルが付けられていましたが、唯一の超大国の座から転落したアメリカはまさに内憂外患の状態にあるのです。次回の大統領選では、へたすればホントに「内戦」が起きるのではないか、と思ったりするほどです。

そんな中で、米中の「ハイテク覇権」をめぐるアメリカの中国対抗政策はエスカレートするばかりです。言うなればこれは、アメリカが唯一の超大国の座から転落する副産物(悪あがき)にようなものです。と同時に、「内戦前夜」とも言われるアメリカの国内事情も無関係とは言えないでしょう。

しかし一方で、過剰な中国対抗政策のために、アメリカ自身が自縄自縛に陥り、みずから経済危機を招来するという、負の側面さえ出ているのでした。今の日米の金利差による急激な円安を見ても、もはや経済的には日米の利害は一致しなくなっています。それはヨーロッパとの関係でも同じです。同盟の矛盾が露わになってきたのです。今後”ドル離れ”がいっそう加速され、アメリカの凋落がよりはっきりしてくるでしょう。

アメリカは520億ドル(約7兆円)の補助金と輸出規制を強化するCHIPS法というアメとムチのやり方で、自国や同盟国のハイテク企業に中国との関係を絶つ、いわゆるデカップリングを求める方針を打ち出したのですが、当然ながら中国との取引きに枷をはめられた企業は、業績の後退を招いているのでした。片や中国は、既にアメリカに対抗する、「グローバルサウス」と呼ばれる巨大な経済圏を築きつつあります。

また、EV(電気自動車)に搭載する電池製造のサプライチェーンから中国を排除するインフレ抑制法(IRA)も今年の5月に成立しましたが、しかし、車用のリチウムイオン電池のシェアでは、中国メーカーが48%を占めており、その現実を無視するのはビジネスとしてリスクがありすぎる、という声も出ているそうです(ちなみに、第2位は韓国で30%、第3位は日本で12%です)。

さらには、電池の原料であるリチウムとコバルトの精錬技術と供給量では、世界の供給量の7割近くを中国が握っているそうです。そのため、中国を排除すると電池が供給不足になり、車の価格が上昇する懸念も指摘されているのでした。

半導体にしろ電池にしろ、デカップリングで自給率を上げると言っても、時間と手間がかかるため、言うほど簡単なことではなく混乱は避けられないのです。それこそ返り血を浴びるのを覚悟の上で体力勝負しているような感じになっているのでした。

米中対立は民主主義と権威主義の対立だと言われていますが、私には、全体主義と全体主義の対立のようにしか見えません。「ハイテク覇権」をめぐる熾烈な争いというのは、まさに世界を割譲する帝国主義戦争の現代版と言ってもいいのです。

渋谷が100年に一度の再開発の渦中にあると言われますが、世界も100年に一度の覇権の移譲が行われているのです。でも、当然ながら資本に国境はなく、覇権が中国に移ることは資本の「コンセンサス」と言われています。今どき、こんなことを言うと嗤われるだけでしょうが、「万国の労働者団結せよ!」というのは、決して空疎なスローガンではない(なかった)のです。

もちろん、東アジアで中国と対峙しなければならない日本にとっても、米中対立は大きな試練となるでしょう。今はアメリカの後ろでキャンキャン吠えておけばいいのですが、いつまでも対米従属一辺倒でやっていけるわけではないのです。

アメリカが世界の覇権国家として台頭したのは第二次大戦後で、たかだかこの75年のことにすぎません。中国が覇権国家としてアジアを支配していたのは、千年単位の途方もない期間でした。だから、英語で「chinese characters」と書く漢字をはじめ、仏教も国家の制度も、皇室の伝統行事と言われる稲刈りや養蚕も、日本文化の多くのものは朝鮮半島を通して大陸から伝来したものなのです。

関東近辺の山に登ると、やたら日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征に関連した神社や岩やビュースポットが出て来ますが、日本武尊とは半島からやってきて先住民を”征伐”して日本列島を支配した渡来人のことで、それらは彼らを英雄視した物語(英雄譚)に由来したものです。ちなみに、九州では、同じ日本武尊でも、九州の先住民である熊襲を征伐した話が多く出てきます。

国家は引っ越すことができないので、好き嫌いは別にしてこれからも東アジアで生きていくしかないのです。中華思想から見れば、日本は”東夷”の国です。それが日本の”宿命”とも言うべきものです。同時にそれは、河野太郎が主導するような、デジタル技術を駆使して人民を管理・監視し、行政的にも経済的にも徹底した省力化・効率化をめざす、中国式の全体主義国家に近づいて行くということでもあります。これは突飛な話でも何でもなく、地政学的に「競争的共存」をめざすなら、そうならざるを得ないでしょう。「競争的共存」というのは、米中関係でよく使われた言葉ですが、今や米中関係は「共存」とは言えない関係に変質してしまいました。

中国のチベット自治区でゼロコロナ政策に抗議して暴動が起きたというニュースもありましたが、私たちにとってそういった民衆蜂起が唯一の希望であるような全体主義の時代が訪れようとしているのです。覇権が300年振りに欧米からアジア(中国)に移ることによって、世界史は大きく塗り替えられようとしているのですが、それは、「反日カルト」の走狗のようなショボい「愛国」など、一夜で吹っ飛んでしまうほどの衝撃をもたらすに違いありません。

中国式の全体主義国家を志向しながら(僅かなお金に釣られて無定見にそれを受け入れながら)、日本は中国とは違う、中国に対抗していくんだ、みたいな言説はお笑いでしかないのです。


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2022.10.29 Sat l 社会・メディア l top ▲
どうやら新型コロナウイルスの新規感染者数は下げ止まりの傾向にあるみたいです。ネットで「新型コロナウイルス  下げ止まり」と検索すると、下記のような見出しがずらりとヒットしました。

東京新聞 TOKYO Web
「第8波の可能性、非常に高い」…都内感染者数が下げ止まり 旅行支援開始や換気不足も不安材料

千葉日報
千葉県内コロナ8波の兆しか  感染者数下げ止まり  専門家「いまは分岐点」と警鐘

FNNプライムオンライン
県「感染者数の下げ止まり続く」新型コロナ345人感染   大分

Web東奥
コロナ感染者数「県内でも下げ止まり傾向」 - 東奥日報社

山陽新聞デジタル
岡山県内コロナ感染 8週ぶり増加  直近1週間  下げ止まり反転局面か

10月21日付けの記事ですが、東京新聞は次のように伝えています。

  都内の1週間平均の新規感染者数は、第7波のピークだった8月3日に約3万3400人まで増加。その後、減少が続いたが、今月に入って下げ止まりの傾向が強まり、今月11日を境に増加に転じている。19日時点で約3400人。厚労省の集計によると、19日までの1週間に報告された全国の新規感染者数は前週比で1.35倍となった。
(上記記事より)


しかし、世の中は、入国制限の緩和、全国旅行支援、GOTOイートの再開など、「ウィズコロナ」を謳い文句に、まるで新型コロナウイルスは過ぎ去った(恐るるに足りず)かのような空気に覆われています。

新たな変異株による第8波の兆しは世界的な傾向なので、入国制限の緩和によってさらに感染に拍車がかかる怖れもあるでしょう。

入国制限の緩和や旅行支援は、全国旅行業協会(ANTA)の会長である二階俊博氏の意向が反映されているのではないかという声がありますが、あながち的外れとは言えないように思います。

専門家も遠慮がちながら、第8波の備えを訴えはじめていますが、テレビなどは、外国人観光客の爆買いや全国旅行支援やGOTOイートの話題ばかりで、第8波の兆しについてはきわめて小さい扱いしかしていません。

さらには、政府の税制調査会で、消費増税の声が出始めているというニュースもありました。上記の旅行支援やGOTOイートもそうですが、新型コロナウイルスに関する財政支出(各種支援策)に対して、悪化した財政を手当てするために増税論が出て来るのは当然と言えば当然です。「お金を貰ってラッキー」というわけにはいかないのです。旅行や外食に浮かれていても、そのツケは必ずまわって来るのです。

まさに今の全国旅行支援やGOTOイートは、踊るアホなのです。でも、同じアホなら踊らにゃ損みたいになっているのです。

今の円安や物価高、そして住民税や健康保険料など「租税公課」の負担増の中で、再び感染拡大となれば、その影響は第1波や第2波の比ではないでしょう。重症化のリスクは低いのかもしれませんが、感染に加えて経済的な負担がまるで二重苦のように私たちの生活にのしかかってくるのです。打撃を受ける観光業者や飲食店も、もう前のように支援策が取られることはないでしょう。そのため、「風邪と同じ」と言われたり、感染症法を今の「2類相当」から5類へ引き下げたりして、社会経済活動に支障がないように「過少に扱う」のだろうと思います。手っ取り早く言えば、感染しても出勤するようなことが半ば公然と行われるということです。というか、そういうことが暗に推奨されるのです。

一方、パテミックを通して、現金給付を受けたり、キャッシュレス決済が進んだということもあって、国民の間に、みずからの個人情報を国家に差し出すことにためらいがなくなったのはたしかです。ありていに言えば、(お金に釣られて)思考停止=衆愚化がいっそう加速されたのです。そして、河野太郎氏がデジタル大臣になった途端、その変化をチャンスとばかりに、マイナンバーカードと健康保険証の紐付けの義務化が打ち出されたのでした。

消費税が導入されたとき、いったん導入されると税率がどんどん上がっていくという反対意見がありましたが、多くの国民は真に受けませんでした。でも、案の定、税率はどんどん上がり続けています。財務省にとって、これほど便利な税はないのです。

マイナンバーカードも然りで、当初は義務ではないと言っていましたが、いつの間にか義務化されたのです。既に健康保険証だけでなく、運転免許証や給付金の手続きや振込みに便利だからという理由で銀行口座との紐付けも決まっています。このまま行けば、電子決済の機能も付与されるかもしれません。利便性、行政の効率化の名のもとに、そうやって日本の“中国化”が進むのです。

ユヴァル・ノア・ハラリは、携帯電話の通信記録や位置情報、クレジットカードの利用情報などという「行動の監視」だけでなく、パンデミックによって、身体の内側まで監視できるような、「独裁者が夢見ていた」システムができあがった、と言っていましたが、日本でもそれが現実のものになってきたと言えるでしょう。マイナンバーカードに健康保険証が紐付けられることによって、私たちの健康に関する情報が国家に一元的に管理されるようになるのです。でも、健康はあくまで手はじめにすぎません。生活に関するあらゆる情報が、日々の行動とともに監視・管理されるようになるのです。それが日本の”中国化”です。

コスパやタムパを重視するデジタルネイティブの世代の感性も、デジタル独裁=デジタル全体主義にとって追い風であるのは間違いありません。

タブレットを持って記者会見に臨んだだけで、「河野さんは他の大臣と違う」と称賛する(ホリエモンやひろゆきのような)アホらしい言説が、衆愚政治を招来しているのです。どうせ個人情報はGoogleに送られているのだから同じじゃないか、と彼らは言うのですが、そういった発言によって、彼らはデジタル全体主義のイデオローグになっているのでした。
2022.10.27 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
PEAKSのウェブサイトに、下記の記事が出ていました。

PEAKS
クマが上から飛んでくる衝撃動画「登山中に熊に襲われた」 現場の真相を取材

私も、この動画をYouTubeで観ました。

私自身、二子山ではないですが、近辺の山に登ったことがあります。至るところに「熊の目撃情報あり」の注意書きの看板があり、あのあたりは熊の生息地域であることはたしかなようです。

子ども連れの親熊が、子どもを守るために本能的に襲ってきたのでしょうが、「埼玉のジャンダルム」などと言われるほど厳しい岩稜帯が連なる二子山をクライミングしている最中に、熊が頭上から襲って来る映像はたしかに衝撃的です。動画は、現在、470万回再生されており、英語の字幕を入れていることもあってか、世界中に拡散されているようです。

ただ、私が感心したのは、動画の主が「取材のご相談は登山系の媒体に限定させて頂いております」と概要欄で断っていることです。

PEAKSの記事でも、記事を執筆した山岳ライターの森山憲一氏が次のように書いていました。

動画公開後、島田さんのもとにはテレビ局などから動画利用のお願いが多数寄せられているそうだが、いまのところすべて断っている。「衝撃映像」などと題して流され、スタジオの人が「登山は危ないですね」などと語って終わるかたちで消費されたくないというのだ。


遭難事故でもそうですが、メディアは、「安易な登山は危険」「遭難は迷惑」みたいなお定まりの自己責任論で報じるのが常です。ましてや、テレビのバラエティ番組などでは、ゲストのタレントたちが「キャー怖い」とアホみたいな嬌声を上げてそれで終わりなのです。

前に上高地の小梨平でキャンプをしていた女性のハイカーが、テントで睡眠中に熊に襲われて怪我をするという事故がありました。その女性は、大学の山岳部出身のハイカーだったので、朝日新聞の取材を受けたり、『山と渓谷』誌に体験記を発表していました。その中で、「熊に恨みはない」「熊に申し訳ない」と書いていました。

すると、ネットでは、「なんだ、その言い草は」と嘲笑の的になったのでした。彼らは、「人間を襲う熊なんか殺してしまえ」という身も蓋もない考えしかないのです。そして、同じような単純な考えで、遭難したハイカーに悪罵を浴びせるのでした。

登山では必ず記録を付けます。それは、思い出のためだけではなく、何かあったときの検証のためでもあります。どんな山に登るのでも、登山届と記録は必須なのです。

登山において、検証するというのは非常に大事なことです。この動画を検証のため、熊対策のために使ってほしい、という動画主の考えは、本来のハイカーが持っている見識だと思いました。中には熊鈴がうるさいといって、顔をしかめたりブツブツ文句を言ったりするようなハイカー(大概高齢者)がいますが、そういう下等なハイカーは山に来るべきではないでしょう。

今の時期だと、どこのテレビや新聞も、「紅葉が盛りを迎えて登山客で賑わっています」というような定番の”季節ネタ”を取り上げるのですが、遭難事故が起きると、途端に鬼の形相になって、まるで自業自得だと言わんばかりに、遭難者叩きを煽るような口調に一変するのでした。それは、Yahoo!ニュースのようなウェブニュースも然りです。

そのため、遭難者自身や家族が、事故後もSNSのバッシングに苦しむという”二次災害”の問題もあります。

もし登山系ユーチューバーだったら、「衝撃注意」「死ぬかと思った」「危機一髪」などというキャッチ―なタイトルで仰々しく煽って、再生回数を稼ごうとするでしょう。実際に、遠くで熊を目撃しただけで、ここぞとばかりに大袈裟なタイトルを付けてアップしている動画はいくつもあります。

旧メディアでもネットメディアでも、まともな神経で接するのは非常に難しいと思いますが、このように明確な見識を突き付けるのもひとつの方法だと思いました。
2022.10.25 Tue l 社会・メディア l top ▲
先日、田舎から友人が上京して来たので、久しぶりに会いました。何でも天皇夫妻や三権の長が列席したような集まりに出席するために上京したそうで、警備が凄かった、と言っていました。

「こいつ、そんな役職に就いていたのか」と思いましたが、しかし、会えばいつもの他愛のない(いつまでも成長しない)話をするだけです。私は、山用のTシャツとパンツにスニーカーにリュックを背負った恰好でしたが、さすがに彼はちゃんと紺のスーツを着てネクタイを締めていました。

お土産だと言って田舎のなつかしいお菓子も貰いました。見た目は景気がよさそうだったので、食事もご馳走になりました。

その中で、久住連山の話になりました。彼も子どもの頃からの習慣でときどき山に登るので、自然とそういった話になるのでした。

私も前に書きましたが、久住連山が阿蘇国立公園と一緒になるとき、山の反対側の九重ここのえ町が「俺たちも九重くじゅうだ」と言い出して、折衷案として「阿蘇くじゅう国立公園」とひらがな表記になった話や、最近、久住山や久住連山が「九重山」や「九重連山」と表記されていることを取り上げて、「ホントに頭に来るよな」と言っていました。これは、私たちの田舎の人間に共通する感情です。

私は知らなかったのですが、久住連山とは別に最寄り駅から祖母山への登山バスも出ているそうです。祖母傾山は「おらが山」という感覚はないので意外でしたが、祖母山は日本百名山なので、登山客の便宜をはかっているということでした。「百名山なんて、あんなもん関係ないじゃん」と言ったら、「まあ、まあ、まあ」と言って笑っていました。もっとも、地図上では祖母山も「おらが村」の端っこにあるのです。

私も若い頃、祖母山に登ったことがありますが、そのときは赴任先の町で、役場の職員や学校の教師をしている地元の青年たちが山登りのグループを作っていて、彼らに誘われて一緒に登ったのでした。祖母傾山は、彼らには地元の山でしたが、私自身は、今の奥多摩などと同じように、よその山に登っているような感じでした。私にとっては、やはり久住が地元なのです。中でも大船山が「おらが山」なのです。

祖母山の登山口がある町も、当時、私が担当していた地区だったので、よく車で行っていました。今でも忘れられないのは、登山口の近くにおいしい湧き水が出ているところがあるので、湧き水を飲もうと車を停めて車外に出たら、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできて、子どもの頃から紅葉は見慣れているはずなのに、「紅葉ってこんなにきれいなんだ?」と感動したことです。そんなさりげない風景が、一生忘れられない風景になることもあるのです。

これも前に書いたかもしれませんが、地元にいた頃、夜、その友人の家を訪ねて行ったことがありました。友人の家は、私たちの田舎の最寄り駅がある人口が1万人ちょっとの城下町にあります。

私たちの田舎は、ウィキペディア風に言えば、「祖母山・阿蘇山・くじゅう連山の3つの山岳」に囲まれた町で、当時は平成の大合併の前だったので、友人の町は私の実家がある町とは別の自治体でした。大昔は同じ「郡」だったのですが、友人の町が分離して「市」になり、そして、平成の大合併で今度は分離した「市」に統合されたのです。人口が1万ちょっとというのは、合併する前の話で、現在は2万人弱だそうです。

当時、私は、実家とは別に、祖母傾山の大分県側の登山口がある町の隣町の営業所に勤務していました。会社が借り上げたアパートに住んでいたのですが、何故か、ふと思い付いて車で30~40分かかる友人の家を訪ねて行ったのでした。

友人の家は駅の近くの商店街の中にあったのですが、行くとお母さんが出て来て、友人は出かけていると言うのです。1時間くらいしたら帰って来るので、(家に)上がって待っているように言われたのですが、「いいです。ちょっと時間を潰してまた来ます」と言って、町外れにあるパチンコ屋に行ったのでした。

でも、パチンコ屋に入ったらお客は数人しかいませんでした。店内には古い歌謡曲が流れており、うら寂しい雰囲気が漂っていました。

時間が経ったので、再び、友人の家に行き、友人と一緒に近所のホテルの中の小料理屋に行って話をしました。商店街も人通りはまったくなくひっそりと静まり返っていました。もちろん、商店街と言っても、アーケードがあるような立派なものではなく、ただ、昔ながらの店が並んでいるような通りにすぎません。

また、ホテルも、今で言えば民宿やゲストハウスみたいな二階建ての小さな建物です。小料理屋は、おそらく宿泊客が食事をするところなのでしょうが、私たち以外お客は誰もいませんでした。

どうして急に友人の家を訪ねて行ったのかと言えば、たぶん会社を辞めて再び上京することを告げに行ったのだと思います。まるでゴーストタウンのようなひっそりとした町の様子がそのときの自分の心象風景と重なり、それで今でも心に残っているのでしょう。

その頃の私は、仕事はそれなりに順調でしたが、耐えられないほどの寂寥感と空虚感に日々襲われていました。のちに当時の会社の同僚と会ったとき、私がどうして会社を辞めたのか理解できず、みんなで首を捻っていた、と言われたのですが、もとより心の奥底に沈殿するものが他人にわかるはずもないのです。その意味では、私はホントに孤独でした。

私は本を読んだり映画を観たりするのが好きでしたが、当時、私が住んでいた町には本屋は1軒あるだけで、映画館はありませんでした。本屋もめぼしい本は売ってないので、いつも注文して取り寄せて貰っていました。

でも、九州の山奥の人口が2万人足らずの小さな町のアパートで、本を読んでも何だか淋しさを覚えるばかりでした。へたに東京の生活を知っていたので、ミーハーと言えばそうなのですが、新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂で本を買って、名画座で独立プロのマイナーな映画を観たりするような生活がなつかしくてならなかったのです。そういった空気に飢えていたのでした。

朋あり遠方より来る、そして、旧交を温めるのも、年を取ると何となく淋しさもあります。もう二度と戻って来ない時間が思い出されるからでしょう。

「久住の紅葉を見に帰っちくればいいのに」と言われましたが、「そうだな、今年は無理じゃけん、来年かな」と答えました。でも一方で、来年ってホントに来るんだろうか、と思ったのでした。
2022.10.25 Tue l 故郷 l top ▲
外国為替市場の円相場で、とうとう1ドル=150円の大台に乗りました。これは32年ぶりの円安水準だそうです。

調べてみると、30年前の1990年の大納会の日経平均株価は2万3千848円71銭でした。前年(1989年)の大納会の株価は、3万8千915円87銭で、1年で約39%も下落しています。

つまり、1990年はバブルが崩壊した年であり、日本経済の「失われた30年」がはじまった年でもあったのです。

国税庁の「民間給与実態統計調査」によると、1990年の平均給与は425万2千円です。最新の2020年(令和2年)は433万円で、この30年間ほとんど上がってないことがわかります。

「鈴木俊一財務相は21日の閣議後の記者会見で、為替介入の可能性について、『過度な変動があった場合は適切な対応をとるという考えは、いささかも変わりない』と述べ、従来の発言を繰り返し、市場を牽制(けんせい)した」(朝日の記事より)そうです。

しかし、朝日の別の記事では、「政府の為替政策の責任者である財務官を務めた」渡辺博史・国際通貨研究所理事長の次のような発言を紹介していました。

朝日新聞デジタル
1ドル150円「国力低下を市場に見抜かれている」 元財務官の憂い

  「いまの円安は、日米の金利差でもっぱら説明されているが、私は今年進んだ円安の半分以上は日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきていることが要因だと考えている。実際、日本企業をM&A(合併買収)するのに、1年前の実質2割引きであるにもかかわらず、そうした動きはほぼない。日本の企業や産業技術に対する過去に積み上げられた権威がだんだんなくなっている」


  「日本はもともとエネルギーや食料を輸入に頼る資源小国で、原材料を買い、日本で加工・組み立て、それを輸出し、生き抜いてきた。ところが、自動車を除けば電機などは海外に抜かれ、IT(情報技術)などの成長分野では米中に後れをとった。この10年ほどで日本の貿易収支は赤字が多くなり、投資を含む経常収支の黒字も小さくなってきている。(略)」


  「一方向に為替が動くと皆が思っているときに、介入をしても、砂漠に水をまくようなものだ。世界の為替市場は1日1千兆円の取引があり、うち円ドルだけでも125兆円。政府の外貨準備高が180兆円あるといっても、相場を維持することは無理筋だ。(略)」


この円安は、日米の金利差によるものであることはたしかですが、ただ、それだけではないということです。てっとり早く言えば、「日本売り」でもあるのです。

ドルが実質的な世界の基軸通貨の役割を果たしていたことを考えれば、通貨安が、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化するその副産物であるのは今さら言うまでもないでしょう。とりわけ、対米従属を国是とする日本はその影響が大きいとも言えますが、日本はアメリカの属国みたいな存在であるがゆえに多極化後の世界で生きる術がない、ビジョンを描けてない、という深刻な事情があります。渡辺博史・国際通貨研究所理事長が上記の記事で、「日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきている」というのは、そのことを指しているのだと思います。

鈴木俊一財務大臣が、いくら為替介入の可能性を示唆して市場を牽制しても、1日1千兆円の取引がある世界の為替市場の中で、円ドルの取引はわずか125兆円にすぎず、しかも、円安介入の原資である外国為替資金特別会計(外為特金)=外貨準備高は180兆円しかないのです。これでは、鈴木財務大臣の発言が、一時のマネーゲームに使われるだけなのは当然でしょう。介入が「砂漠に水をまくようなものだ」というのは、言い得て妙だと思いました。

一方で、日本と同じように対米従属の度合いが高いフィリピンやタイやマレーシアや韓国などの通貨も下落しており、アジア通貨危機の再来も懸念されています。前回と違って今回の通貨危機では、日本は主役のひとりになるのでしょう。

何度も言いますが、日本が先進国のふりをしていられるのは、2千兆円という途方もない個人の金融資産があるからです。もちろん、それは見栄を張るために食い潰されていくだけです。しかも、誰もがその恩恵にあずかることができるわけではありません。その恩恵にあずかれない人たちは、先進国とは思えないような生活を強いられ下のクラスに落ちていくしかないのです。

コロナ禍で企業も個人も、ものの考え方が大きく変わりました。私のまわりでも、会社を辞めて別の道を歩むという人間もいます。東京の生活が異常だということに気づいた、という声も聞くようになりました。電車が来てもないのに、駅の階段を駆け下りて行くような日常の異常さ、空しさに気づいたということでしょう。何だかそれは自己防衛リスクヘッジのようにも思います。今の経済システムに身も心もどっぷりと浸かっていると、ドロ船と一緒に沈むしかないのです。

コロナ禍の前まで、中国人観光客はマナーが悪くて迷惑だなどと言っていたのに、コロナ禍を経て入国規制が緩和された途端、中国が一日も早くゼロコロナ政策を転換して中国人観光客が戻って来るのを、首を長くして待ちわびているようなことを言いはじめているのでした。岸田首相も、今国会の所信表明演説で、訪日外国人旅行者の消費額の目標を「年5兆円超」と掲げるなど、円安に対してもはやインバウンドしか頼るものがないような無為無策ぶりをさらけ出したのですが、それも訪日外国人旅行者の消費額の40%強を占める中国人観光客次第なのです。

インバウンドだけでなく、対中貿易が日本の生命線であることは統計を見てもあきらかです。財務省の資料によれば、2021年度の対外貿易額において、輸出・輸入ともにトップなのは中国です。アメリカがトップだったのは、輸出・輸入ともに2000年までです。ここでもアメリカの没落が如実に示されているのでした。そのくせ、一方で、相変わらず対米従属にどっぷりと浸かったまま、アメリカの尻馬に乗って米中対立を煽っているのですから、何をか言わんやでしょう。

台湾をめぐる米中対立が「危機的」と言われるほど深刻化したのは、アメリカがペロシの台湾訪問などで中国を挑発したからです。アメリカが怖れているのは、中国の経済力です。前も書きましたが、石油のアメリカから次の100年のレアメタルの中国に覇権が移ることに抵抗しているからです。特に目玉になっているのが半導体です。半導体不足で新車の納期が数年待ちなどと異常な状況が言われていますが、それもアメリカが中国企業との取引きを規制する、いわゆるデカップリング戦略を取ったからです。台湾が半導体の一大生産地であることを考えれば、台湾をめぐる米中対立の背景も見えてくるでしょう。

しかし、レアメタルの中国に覇権が移ることは、資本の「コンセンサス」なのです。資本は、自己増殖することが使命であり、そのためには国家などどこ吹く風なのです。「プロレタリアートに国境はない」と『共産党宣言』は謳ったのですが、当然ながら資本にも国境はないのです。今、取り沙汰されている「危機」なるものは、言うなればアメリカの悪あがきのようなものです。

アメリカが唯一の超大国の座から転落するのは、前からわかっていたはずです。でも、日本は対米従属に呪縛されたまま、何の戦略的な思考を持つこともなかったし、持とうともしませんでした。アメリカの尻馬に乗って軍事的に中国と直接対峙したら、日本は政治的にも経済的にも破滅するのはわかっていながら、漫然と対米従属を続けてきた(続けさせられた)のです。

日本維新の会との連携を進める立憲民主党の泉健太党首は、今日の昼間、都内で行われた講演で、改憲を掲げる日本維新の会とは、「実はそんなに差がないと思っている。憲法裁判所、緊急事態条項は、我々も議論はやっていいと思っている」「必要であれば憲法審で議論すればいい」と発言したそうですが、私は、その(下記の)記事を見て、「それ見たことか」と言いたくなりました。

朝日新聞デジタル
立憲・泉代表「9条も必要なら憲法審で議論すればいい」

仮に軍事的緊張が高まっているとしても、無定見にその流れに乗るのは米中対立の中で貧乏くじを引く(引かされる)だけだ、ということさえ、胸にブルーリボンのバッチを付けたこの野党の党首はわかってないのかもしれません。その意味ではネトウヨと同じです。前から何度もくり返していますが、そもそも立憲民主党は野党ですらないのです。

米中が軍事衝突したら、台湾には米軍基地がないので、沖縄の基地から出撃するしかありません。そうなれば、当然、敵国から攻撃の対象になるでしょう。なのに、どうしてわざわざそのための(戦争の当事者になるための)準備をしなければならないのか。憲法9条は戦争にまきこまれないための最後の砦だったはずです。また、軍事費が増大すれば、国家が経済的に疲弊してにっちもさっちもいかなくなります。ましてや、最大の貿易相手国を失うのです。憲法9条はその歯止めにもなっていたはずなのです。

経済再生大臣の目をおおいたくなるような醜態に象徴されるように、私たちの国家は経済再生なんてただの掛け声で、もはや打つ手もなく当事者能力を失くしているようにしか思えませんが、それは経済だけでなく政治も同じです。

また、今の円安に関しては、世界の多極化という大状況だけでなく、アベノミクスの負の遺産という側面があることも見逃せません。アベノミクスが「日本再生」のために掲げた三本の矢のひとつである、円安を誘導する「大胆な金融施策」が、日本だけがマイナス金利政策から抜け出せない無間地獄を招いてしまったのです。そして、それが「日本売り」の要因になっているのです。その意味でも、安倍元首相は、経済政策においても「国賊」だったと言ってもいいでしょう。

抜本的な改革をしなければ再び「強い経済」が戻って来ない、と識者はお題目のように言いますが、抜本的な改革なんてあるのでしょうか。とてもあるようには思えません。「強い経済」が戻って来ることはもうないのではないか。

むしろ、”強くない経済”の中で、どう生きていくか、どう自分らしく生きていくか、ということを考えるべきではないか、と思います。たとえば、今まで生活するのに30万円必要だったけど、15万円でも生活できるようにするというのも、大事な自己防衛リスクヘッジでしょう。もとより、私たちにはその程度のことしかできないのです。しかし、少なくとも電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りて行くサラリーマンなんかより、自分の人生に対しても、社会に対しても、はるかにまともな感覚を持つことができるでしょう。それが生きる術につながるのだと思います。

奴隷の30万円では、いざとなればポイ捨てされるだけです。コロナ禍に加え、円安によって失われた30年が可視化されたことで、多くの人たちは、自分たちの人生が砂上の楼閣であることに気づいたはずです。「年金はもうあてにできない」とよく言いますが、じゃあ年金をあてにしない生き方はどうすればいいのかと訊くと、みんな口を噤むだけです。今必要なのは、「日本を、取り戻す」(自民党のキャッチフレーズ)ことではなく、「自分の生き方を、取り戻す」ことなのです。

私の知り合いも、家庭の事情で田舎に帰って介護の仕事をしていますが、彼女は「東京で介護の仕事をするのは精神的にしんどいかもしれないけど、田舎だと張り合いを持ってできるんだよね」と言っていました。そういった言葉もヒントになるように思います。私は、彼女の言葉を聞いて、”地産地消の思想”ということを考えました。地産地消は食べ物だけの話ではないのです。

まるでコロナが終わったかのように、全国旅行支援で遊びまわろう、遊ばにゃ損、みたいな報道ばかりが飛び交っており、ともすればそういった皮相な部分に目を奪われがちですが、私たちの社会や人生の本質は、もうそんなところにないのだ、ということを自覚する必要があるのではないでしょうか。


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2022.10.21 Fri l 社会・メディア l top ▲
テレビ局の中で旧統一教会の問題に消極的なのは、NHKとフジテレビとテレビ朝日と言われていました。フジテレビは論外ですが、NHKとテレビ朝日が消極的なのは、今なお故安倍晋三元首相に忖度しているからです。死してもなお、旧安倍派は自民党内では最大派閥であり、メディアに対する故安倍元首相の“威光”は、安倍応援団を通して未だに衰えてないのです。旧統一教会と政治家との関係の本家本元は安倍元首相ですが、それに触れることは、安倍元首相を冒涜することになるのです。

テレビ朝日の「モーニングショー」に有田芳生氏が出演したのは8月18日で、私もちょうど観ていましたが、その席で有田氏はオウム真理教の一連の事件のあと、警視庁が旧統一教会に対して強制捜査に入る準備をしていたけど、「政治の力」によってそれが潰されたという(例の)話をしたのでした。

ところがその日を境に、旧統一教会の問題に対する「モーニングショー」のスタンスが、あきらかに変化します。もちろん、有田氏は二度と呼ばれることはありませんでした。

リテラは、この件に関して、「上層部からの一方的な報道中止指示があった」からだ、と書いていました。

  まず、『モーニングショー』への圧力は、18日、有田芳生氏が発した「政治の力」発言がきっかけだった。この発言は、前述のように、Twitter上でも「政治の力」がトレンドワード入りするなど大きな話題になったが、すると、その日のうちに、統一教会の取材に動く現場スタッフに、プロデューサーから「上から指示があった、しばらく統一教会問題はやらない」とストップがかかったのだという。

   「トーンを落とす、とかそういうレベルではなく、一切やるな、ということだったようです。実際、『モーニングショー』の現場は、翌日も有田芳生氏に出演してもらうつもりでスケジュールをおさえ、特別取材班がいくつもネタを仕込んでいた。ところが、それをすべてナシにしろといわれ、統一教会とは何の関係もない話題に差し替え。有田氏にも『別の企画をやることになったので』と、急遽キャンセル連絡を入れさせられたらしい」(テレビ朝日関係者)

リテラ
テレビ朝日で統一教会報道がタブーに!  『モーニングショー』放送差し替え、ネット動画を削除!   圧力を囁かれる政治家の名前


出演がキャンセルされたことは、有田氏も認めています。

前も書きましたが、『ZAITEN』(10月号)の特集「大株主『朝日新聞』の制御不能  老衰する『テレビ朝日』の恍惚」によれば、テレビ朝日及び持ち株会社のテレビ朝日ホールディング双方の代表取締役会長を務める78歳の早河洋氏は、「誰が社長になっても同じ」と社内で言われるほどの「唯一無二の最高権力者」で、篠塚浩社長は「早河さんのAD」とヤユされているのだそうです。

2009年にテレビ朝日初の生え抜き社長になった早河氏は、5年後に会長兼CEOの地位を手に入れてからは、代々の社長に権力を移譲することなく、テレビ朝日の「絶対的な君主」としての地位を固めて行ったのでした。

早河氏が会長になってから、篠塚氏で社長は4人目ですが、その中で朝日新聞から「天下った」のは最初の吉田慎一氏だけで、あとはテレ朝のプロパーが内部昇格しているそうです。朝日新聞はテレビ朝日の30%強の株を握っていますが、早河氏は完全に朝日新聞のコントロールから脱するのに成功したと言えるでしょう。

もっとも朝日新聞も、テレ朝にかまっている余裕はないのです。会社はじまって以来の大リストラが行われている真っ最中だからです。朝日は、全国紙で最多の4100人を超える社員を抱えていますが、9月から11月にかけて45歳以上の社員を対象に「200人以上」の希望退職者を募っているのです。昨年の1月に110名が早期退職しており、今回の200名と合わせると300名の社員がリストラされることになります。

早河会長の秘書だった女性が人事局長に大抜擢されてから、”不適材不適所”のトンチンカンな人事が横行しているという話がありますが、それが関係しているのかどうか、テレ朝では社員の不祥事も続出しているそうです。

今年の2月には、セールスプロモーション局ソリューション推進部長の職にある人間が、あろうことか詐欺容疑で大阪府警に逮捕され、同時に「スーパーJチャンネル」のデスクも同じ容疑で逮捕されるという不祥事がありました。彼らは、大阪市中央区のホームページ制作会社の関係者4人と共謀して、「IT導入補助金」を不正受給した容疑がかけられているのです。

しかし、『ZAITEN』によれば、件の部長は、記事の執筆時点でも処分されておらず、有給休暇を使うなどして休職扱いになっているのだとか。元部長が8月で満50歳になったので、このまま「依頼退職」するのではないかという噂が流れているそうです。そのあたりのいきさつについて、『ZAITEN』は次のように書いていました。

(略)というのも、テレ朝では、50歳の誕生月以降のどのタイミングでも退職する際に申請すれば、「生活設計援助制度」が使えるのだ。この制度は60歳の誕生月まで毎月34万円が支給されるもの。50歳の誕生月で退職した場合、10年間あるので、約4000万円。これとは別に退職金も支払われる。
(『ZAITEN』10月号・上記特集より)


『ZAITEN』は、元部長は「事程左様に会社側が“配慮”をしなければならない存在ということなのか」と書いていました。

「早河王国」になって、テレ朝はエンタメ路線に舵を切り、報道部門が弱体化していると言われます。「ニュースを扱う資質に欠けるような人物」が報道局に送り込まれているという指摘さえあるそうです。上記の「スーパーJチャンネル」のデスクの逮捕だけでなく、会長の覚えめでたく役人待遇のエグゼクティブアナウンサーに昇進した木下容子アナの冠番組「木下容子ワイドスクランブル」でも、昨年、ヤラセが行われていたことが内部告発で発覚しました。

玉川徹氏を晒し者にして針のムシロに座らせるようなやり方も、早河会長や篠塚社長が安倍元首相と会食をするなど安倍元首相に近い存在であったということや、同局の放送番組審議会の委員長が、安倍応援団として知られる見城徹幻冬舎代表取締役社長が就いていることなどが背景にあるのではないかと言われていますが、さもありなんと思いました。


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2022.10.20 Thu l 社会・メディア l top ▲
Yahoo!ニュースに関して、次のようなニュースがありました。

朝日新聞デジタル
ヤフコメ投稿、電話番号登録が必須に 不適切投稿への対策を強化

でも、これがホントに「期待できる」ような改善になるのか。はなはだ疑問です。

ヤフーの場合、一人で最大6つアカウントを持つことができるので、「アカウント停止」がいたちごっこになるのは当然で、そんなことは最初からわかっていたはずです。

つまり、今までの「アカウント停止」処置は、単にアリバイ作りのためにやっていたにすぎないのです。そうやって外向けにやってる感を出していただけです。

今後、投稿するのに電話番号の登録が必須になるということは、いわゆる携帯番号認証コード方式がヤフコメにも採用されるということなのでしょう(ただ私はヤフコメに投稿したことがないので、今とどう違うのかよくわかりません)。だとしたら、「アカウント停止」になっても、携帯番号を複数持つとか、スマホを買い替えて新しい番号を取得すれば、投稿は可能なのです。

ヤフコメの場合、芸能人や事件の当事者などに対する誹謗中傷だけでなく、昨年の8月に発生した京都府宇治市のウトロ地区の放火事件の犯人が、ヤフコメによって在日コリアンに対する憎悪を募らせてきたことをみずから法廷で証言しているように、ヘイトスピーチの巣窟になっているという問題もあります。ヘイト団体やカルト宗教などのメンバーが常駐して、差別的な投稿を半ば組織的に行っているという指摘があります。Yahoo!ニュースのコメント欄が、「日本を、取り戻す」(自民党の標語)ための、彼らの言葉で言えば「思想戦」の場になっているのです。

そういった不埒な行為をもたらしたのは、今までも何度も言ってきましたが、ひとえにヤフーがニュースをマネタイズしているからです。バズるようなニュースをトピックスにあげて煽っているからです。

ヤフーにとって、ニュースの価値はどれだけアクセスを稼ぐかなのです。それによって、ニュースの価値が決まるのです。そのため、コメント欄に巣食うユーザー向けにヘイトスピーチや誹謗中傷を煽るような記事をアップすることになるのです。言うなれば、ヤフーとヘイト団体やカルト宗教は、利害が一致しているのです。ネットは悪意の塊だ、と言った人がいましたが、ヤフーはそういったネットの負の部分を利用しているのです。

Yahoo!ニュースと契約する媒体は、基本的にクリック数によって配信料が決まる仕組みになっていると言われており、週刊誌やスポーツ新聞など節操のない媒体は、バズりそうなコタツ記事を量産してYahoo!ニュースに送信することに懸命になっています。もう言論もひったくれもないのです。ただ目先のお金だけなのです。そういった貧すれば鈍する品性によって、Yahoo!ニュースが作られているのです。

先日も侮辱罪が改正されましたが、そのようにヘイトスピーチや誹謗中傷を書き込むユーザーばかりがやり玉にあがり、背後で彼らを暗に煽っているYahoo!ニュースや週刊誌やスポーツ新聞などは、「言論・表現の自由」の建前の下、ほとんど不問に付されているのが現実です。

もちろん、メディアは相互批判で改善するという理想論もありますが、そもそもYahoo!ニュースがいつの間にかメディアに対して絶対的とも言えるような「力」を持ってしまった現在、Yahoo!ニュースを正面から批判するメディアなんてありません。ましてや、週刊誌やスポーツ新聞にとって、今やヤフーは電通と同じように、ただ地べたにひれ伏すような存在になっているのです。でなければ、あんなに必死になって、みずから首を絞めるようなコタツ記事を書きまくったりしないでしょう。

ニュースの価値をアクセス数ではかり、ニュースをマネタイズする考えがある限り、どんな方法を講じても水が低い方に流れる今の状態を改善することはできないでしょう。要はコメント欄を閉鎖すればいいだけの話です。そうすれば、下劣なコタツ記事も姿を消すでしょう。

でも、ヤフーは本気で改善するつもりなどないようです。今回の対策も、単なるやってる感で誤魔化しているにすぎないのです。


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『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2022.10.19 Wed l ネット l top ▲
岸田首相が、旧統一教会に対して、宗教法人法に基づく調査実施の検討に入ることを、17日(月)の国会の予算委員会で表明する、というニュースがありました。

朝日新聞デジタル
政府が旧統一教会の調査検討 法令違反の有無など、首相17日に表明

政府は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題をめぐり、宗教法人法に基づく調査実施の検討に入った。消費者庁の有識者検討会が近くまとめる提言に調査要求が盛り込まれる見通しであることを踏まえ、岸田文雄首相が17日に開かれる衆院予算委員会で表明する考えだ。必要があれば調査をするよう文部科学相に指示するとみられる。

政府関係者が15日、明らかにした。調査は、所轄庁が教団の業務や管理運営についての報告を求める。法令違反など解散命令の要件に該当するかどうかを調べ、結果次第では、教団の宗教法人格を剝奪(はくだつ)する解散命令の請求につながる可能性もある。
(上記記事より)


とは言え、この記事の後半に書いていますが、政府・与党の中では「解散請求」に慎重な声が大勢を占めているようです。その一方で、おざなりなアンケート以外何のアクションも起こさない岸田政権に対して、支持率低下というきびしい世論の声が突き付けられているのです。それで、記事にも書いているように、とりあえず「調査」を指示して世論の批判をかわそうという狙いもあるのかもしれません。「質問権の行使」という迂遠なやり方も、時間稼ぎをして世論が下火になるのを待つという姑息な計算がはたらいているのではないか、と思ったりもします。

ただ、逆に考えれば、いくら向こう3年間選挙がないとは言え、このまま旧統一教会の問題を嵐が去るまでやり過ごすことがさすがにできなくなってきた、そこまで追い詰められた、と言えないこともないのです。岸田首相は、2日前には「解散命令は難しい」と消極的な発言をしていたのです。まさに”急転直下”と言ってもいいような方針転換なのです。

たまたま今の政治に詳しい知人と会った際、この記事が話題にのぼったのですが、彼は、(具体的な発言の内容を待つ必要があるけど)総理大臣が国会でわざわざ表明するということは、国会答弁のノウハウから言えば、「解散命令の請求まで行く可能性がある」と言っていました。

支持率の低下だけでなく、全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が、文科大臣と法務大臣に対して、解散命令の請求を行うよう申し入れたことや、消費者庁の有識者検討会も、全国弁連と同様な提言を予定しているなど、「解散命令の請求」という伝家の宝刀に対して、外堀が埋められつつあるのは間違いないようです。

消費者庁の検討会は週1回のペースで進められたそうですが、その会合におけるメンバーの菅野志桜里氏(弁護士・元衆院議員)らの発言を、朝日新聞が記事にまとめています。そこには、私たちが想像する以上に明確な方向性が示されているのでした。

朝日新聞デジタル
悪質宗教法人の根っこ、どう絶つ? 消極的な行政に「猛省促したい」

「税優遇のうまみを前提とした搾取のシステムを壊す必要がある。やはり宗教法人としての法人格を剝奪(はくだつ)することは大きな意味がある」(第3回・菅野氏)


「刑事だけでなく、民事も含めて個別の違法行為を組織的に繰り返す団体が、調査を受けて解散命令も受けるというルールが機能するよう提言が必要」(第2回・菅野氏)


「(民事裁判で)伝道、教化、献金要求行為などに組織的な違法が認められたものが積み上がっているし、そのほか明らかになっている数々の問題を直視すれば要件に該当すると考えるのが自然」「所轄庁において質問・報告徴収権を行使して、解散命令請求の判断に向けた調査を速やかに開始すべき」(第6回)


また、検討会の座長である河上正二東大名誉教授も、「非常に消極的な態度を示しているけれども、その姿勢には猛省を促したい」(同上)と文化庁の姿勢を批判し、メンバーの中央大の宮下修一教授も 「あるものをまず活用してダメだったら次に行こうという話になる時に、そもそも『活用しません』とか『やりません』という姿勢自体について私自身も座長と同じように猛省を求めたい。まずそこからスタートすべきだ」(同上)と、文化庁の(公務員特有の)事なかれ主義を批判しているのでした。

このブログを読んでもらえばわかりますが、私は、いくらでも拡大解釈が可能なフランスのような反カルト法ではなく、現行法で処分(解散命令=法人格を剥奪)する方が適切だと考えていますので、この方向性には賛成ですし期待したい気持があります。

もとより、教団があろうがなかろうが、法人格を持っていようが持ってなかろうが、個人に信仰の自由はあるのです。「信教の自由の観点から慎重でなければならない」という政府・自民党の主張は、旧統一教会との関係を絶つことができない彼らの詭弁にすぎないのです。

もちろん、これから旧統一教会から自民党に対する”ゆさぶり(脅し)”も激しさを増すでしょう。「安倍応援団」と言われ(る旧統一教会の走狗のような)メディアや文化人やコメンテーターたちの、「いつまで統一教会のことをやっているだ。他に大事なことがあるだろう」という大合唱もはじまるでしょう。

当然、自民党内の反発もあります。安倍元首相を「国賊」と呼んだ村上誠一郎衆院議員に対して、自民党の党紀委員会は、「極めて非礼で許しがたい」として1年間の党の役職停止処分を下すなど、旧統一教会との関係に蓋をする(言論封殺の)動きもはじまっています。党内で旧安倍派(清話会)が最大勢力であることには、いささかも変わりがないのです。

玉川徹氏の“失言”に対するバッシングも、その動きに連動したものと言えるでしょう。文字通り、彼は国葬と電通という二つの虎の尾を踏んだのです。それにつれ、旧統一教会と安倍元首相の関係を伝える報道も目立って少なくなってきました。

でも、安倍元首相が、「反日カルト」に「国を売ってきた」中心人物であり、「国賊」と呼ぶべき存在であることはまぎれもない事実なのです。「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”を体現する人物であることは否定しようがないのです。

戦後の保守政治は虚妄だったのです。「愛国」も壮大なるウソだったのです。

そのことを言い続ける必要があるでしょう。メディアに”腰砕け”の兆候が見られるのが懸念材料ですが、そう言い続けることでもっと外堀を埋めなければならないのです。でないと、大山鳴動して鼠一匹になってしまうでしょう。


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カルトと信教の自由
2022.10.16 Sun l 旧統一教会 l top ▲
笹尾根・ハセツネカップ
笹尾根


久し振りに登山に関するYouTubeを観たら、登山ユーチューバーの中で既にやめていたり、休止状態のユーチューバーが結構いることがわかり、妙に納得できました。

登山ユーチューバーというのは、単に趣味で登山動画を上げている人のことではありません。直近の1年間で動画の総再生時間が4000時間を超えているとか、チャンネル登録者数が1000人以上など一定の条件を満たして、Googleからアドセンスなどの広告収益を得ている人たちです。

私も一時よくYouTubeの動画を観ていましたが、最近は観ることがめっきり少なくなりました。それはどのジャンルでも同じかもしれませんが、動画をあげるユーチューバーたちのあざとさみたいなものが透けて見えるようになったからです。でも、それは、上のGoogleから与えられた条件を満たすためには仕方ない一面もあります。

もともと他のジャンルに比べると、登山人口はそんなに多くありません。むしろ、ニッチのジャンルと言ってもいいでしょう。同じアウトドアでも、キャンプなどに比べると雲泥の差です。現在いま、アウトドアブームと言われていますが、それはキャンプに代表されるように、あくまで山の下の話なのです。

最近の世代は、デジタルネイティブと言われるように、生まれたときからデジタル機器に親しんでいたということもあり、コスパやタムパ(タイムパフォーマンス)を重視する傾向があり、スマホで動画を観る際も、早送りして観たり(=倍速視聴)飛ばしながら観たり(=スキップ再生)するのが特徴だと言われています。

そういったコスパやタムパを重視する世代にとって、登山なんて効率の悪い典型のような趣味です。実際に山に登るとわかりますが、登山は、倍速視聴やスキップ再生のような感覚とは対極にある、自分の体力とスキルと判断力しか頼るものがない、アナログで愚直で、それでいて文化的な要素もある、(スポーツとも言えないような)きわめて対自的な「スポーツ」です。どうしてわざわざあんなにきつくて、へたすれば怪我をするようなことをするのか理解できません、と言われたことがありますが、バカの高登りと言われれば、たしかにその通りなのです。

しかも、登る山は限られています。そのため、毎年紅葉シーズンになると、涸沢など人気の山にユーチューバーがどっと押しかけて、似たような動画があがることになるのです。私の知る限り、登山ユーチューバーが本格的に登場したのは、ここ3~4年くらいですが、紹介される山は既に一巡も二巡もしており、飽きられるのは当然と言えば当然なのです。

そもそも彼らの多くは、俄か登山愛好家ハイカーにすぎません。普通はもっと時間をかけてステップアップするものです。私が山で会った女性は、登山歴は5年以上になるけど、尾根を歩くのが好きだったので、最初の2年くらいは頂上に登らないで尾根ばかり歩いていた、と言っていました。私も尾根が好きで、昔、地図で尾根や峠を探してはそこを訪ねて行くようなことをやっていましたので、その気持がよくわかりました。

紙の地図を見てあれこれ想像力をはたらかせる楽しみも、デジタルの時代になって失われました。「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」というのは、寺山修司の言葉ですが、「好き」という感覚には、必ず想像力(妄想)が付随するものです。それは山も同じです。そもそも登山というのは、どこかに人生が投影された非常に孤独な営為です。だから、登山が人を魅了するのでしょう。

私は、人が多い山が嫌いなので、平日しか山に行きませんが、ほとんど人に会うこともなくひとりで山を歩き、途中、疲れたのでザックをおろして地面に座り、水を飲みながらまわりの景色(と言ってもほとんどが樹林だけど)を眺めていると、突然、胸の奥から普段とは違った感情が込み上げてくることがあります。そんなとき、”身体的”ということを考えざるを得ません。ロックは外向的だけどジャズは内向的な音楽だ、とよく言われますが、その言い方になぞらえれば、登山はきわめて内向的な(スポーツならざる)「スポーツ」と言えるように思います。”身体”というのは、内に向かうものだということがよくわかるのでした。

中には、再生回数が見込める人気の山に登るために、飛び級で北アルプスなどに登っているユーチューバーもいますが、そんなユーチューバーにとって、登山はただお金と称賛を得るためのコンテンツにすぎないのかもしれません。そのため、思うように収益があがらないと、山に登るモチベーションも下がってしまうのでしょう。まるで業界人のように、「撮れ高」とか「尺」とか「視聴者さん」などと言っている彼らを見ると、最初から勘違いしているのではないか、と思ってしまうのでした。

結局、残るのは、若くてかわいい女性の動画だけという身も蓋もない話になるのです。山は二の次なのです。

そんな一部の女性ユーチューバーに、コロナ禍で苦境に陥った登山ガイドや山小屋や登山雑誌などが群がり、人気のおこぼれに預かろうという、あさましく涙ぐましい光景も見られるようになりました。ペストやスペイン風邪がそうであったように、新型コロナウイルスで街の風景も人々の意識も変わりましたが(これからもっと変わっていくでしょうが)、登山をめぐる光景も変わったのです。登山が軽佻浮薄な方向に流れることを”大衆化”と勘違いしているのかもしれませんが、それこそ貧すれば鈍する光景のようにしか思えません。

登山は、生活や人生に潤いや彩りをもたらすあくまで趣味にすぎないのです。あえてそんなクサイ言い方をしたいのです。そして、その中から、山に対する思いが育まれ、自分の登山のスタイルを見つけていくのです。その後ろには、平凡な日常やままならない人生が張り付いているのです。だから、「山が好きだ」と言えるのです。トレイル(道)を歩くことは哲学だ、とロバート・ムーア は言ったのですが、そのように登山というのは、ヒーヒー言って登りながら、自分と向き合い哲学しているようなところがあります。

YouTubeとは違いますが、東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。

私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。

笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。

丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。

東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。

ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。


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2022.10.13 Thu l l top ▲
昨日10日の朝8時すぎ(キーウ現地時間)、ロシア軍はキーウ中心部など、ウクライナ各地をいっせいにミサイル攻撃しました。それに伴い、全土で90人以上の死傷者が出たそうです。ウクライナ軍の発表によれば、ロシア軍は83発のミサイルを放ったものの43発が迎撃され、残り40発が着弾したということです。

今回の攻撃で目を引くのは、大統領府や中央官庁が集中するキーウ中心部を狙った攻撃である、と言われていることです。日本で言えば、霞が関を狙ったようなものでしょう。

同時に、キーウ、リヴィウ、ドニプロ、ヴィンニツィア、ザポリッジャ、ハルキウなど各地で、電力施設が攻撃されており、ゼレンスキー大統領が言うように、「ウクライナのエネルギー・インフラが標的」にされた公算が高いのです。キーウの中心部にあるエネルギー関連のインフラ企業「デテック」の本社ビルも攻撃の対象になったそうです。

そこで思ったのですが、今年2月からはじまった侵攻では、キーウへの攻撃もありましたが、その際、中心部の大統領府などの中枢機関への攻撃は手控えていたのか、ということです。昨日の攻撃は5月以来だそうですが、それまでキーウは戦争がひと息ついたかのようなのどかな空気に包まれていて、日本大使館も再開され、避難先から戻って来る人たちも多かったそうです。

昨日のテレビニュースに出ていたキーウ在住のウクライナ人の話でも、プーチンはキーウを手に入れることを考えて街を破壊することを控えていたけど、今回の攻撃でキーウを徹底的に破壊することに舵を切った、というようなことを言っていました。そんなことがあるのか、と思いました。

朝日の記事によれば、ロシアが支配するクリミア共和国のアクショノフ首長は、今回の攻撃について、「作戦初日から敵のインフラをこのように毎日破壊していれば、5月にはすべてが終わり、キエフの政権は粉砕されていただろう」とSNSに投稿していたそうですが、言われてみればそのとおりなのです。

このところ、ウクライナ軍が東部や南部のロシア側支配地域に進撃して次々に奪還している、というニュースが多くありました。また、ロシア下院の国防委員長が、国営テレビの番組で、「我々はうそをつくのをやめなければならない」とウクライナで苦戦を強いられている戦況について真実を国民に伝えるべきだと訴えた、というニュースもありました。このように、西側のメディアでは、ロシア敗色濃厚のような報道におおわれていたのです。

そんな状況下で、10月8日、クリミア半島の東部とロシア本土を結ぶ、クリミア半島併合の象徴とも言うべきクリミア橋が爆破されたのでした。それは、プーチンの70回目の誕生日の翌日でした。

さっそくキーウ市内には、クリミア橋爆破の壁画が掲げられ、その前で記念写真を撮る市民の様子がニュースで伝えられていました。ゼレンスキー大統領も「未来は快晴」と発言して、「ウクライナは歓喜に沸いた」そうです。

前に、プーチンが思想的に影響を受けたと言われている、国粋主義者アレクサンドル・ドゥーギンの娘が車に仕掛けられた爆弾で殺害された事件がありましたが、それもウクライナ政府の情報機関が関わっていた、とニューヨーク・タイムズが伝えています。

プーチン自身も、政権内部の強硬派から「手ぬるい」と突き上げを受けていた、と言われていました。追い込まれたプーチンが戦術核兵器を使う懸念さえ指摘されていたのです。そんな中でのクリミア橋の爆破は、ロシアの強硬派の神経をさらに逆なでするような挑発的な行為とも言えるのです。

案の定、今回の大規模攻撃によって、戦争が振り出しに戻ったと言われています。ベクトルを終結の方向ではなく、逆の方向に向けるような”力”がはたらいているように思えてならないのです。

ウクライナ侵攻で解せないのは、ウクライナ国内を通っているロシアとヨーロッパを結ぶパイプラインが破壊されずに温存されているなど、戦争なのにどこか手加減されている側面があるということです。

侵攻前、アメリカのシンクタンクが、ドイツ経済を弱体化させ、ドイツが牽引するEUの経済力を削ぐことがアメリカ経済の反転につながる、そのためにウクライナを利用してロシアとドイツの関係にくさびを打ち込むことが必要だ、というような報告書を出していたという話があります。実際に、ウクライナ侵攻で対ロシアの天然ガス依存率が35%まで下がったことなども相俟って、ドイツ国内の電気代は何と600%以上値上がりしているそうです。ドイツ経済が苦境に陥っているのは事実なのです。

ロシアとベラルーシが合同軍を編成するというニュースもありますが、厭戦気分が漂っていたと言われた戦況が、再び元に戻り、さらに拡大していくのは必至のような状況なのです。

たしかに、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、アメリアは紛争を終結させるために介入しました。しかし、今回はウクライナに武器を供与してひたすら戦争を煽るだけです。

今回のウクライナ侵攻は、唯一の超大国の座から転落したアメリカの悪あがきのようなものとも言えるのです。世界が多極化する中で、当然、このようにセクター間の争いや潰し合いも起きるでしょう。

今回の争いは、アメリカとドイツとロシアのそれぞれの”極”の潰し合いみたいな側面もあるように思います。その潰し合いの中で漁夫の利を得るのは、言うまでもなく中国です。

先日、OPECプラスが世界需要の約2%に相当する日産200万バレルを11月から減らすことを決定し、インフレに苦しむアメリカなどが強く反発したというニュースがありましたが、これもOPECプラスのメンバーであるロシアの反撃だとの見方が有力です。もはやOPECに対しても、アメリカの力は及ばなくなっているのです。

世界戦争や核戦争に至らないのは、言うまでもなく核の抑止力がはたらいているからですが、それ以外にも、ロシアとヨーロッパの関係に示されているように、20世紀の世界戦争の時代と違って経済的にお互いが強く結び付いており、単純に喧嘩すればいいという時代ではなくなっている、ということもあるような気がします。しかも、それぞれの国民の生活水準も格段に上がっているので、生活水準を維持するために相互の持ちつ持たれつの関係をご破算にすることはできない、という事情もあるように思います。それが最終戦争のブレーキになっているのではないか。

笠井潔は、19世紀は国民戦争、20世紀は世界戦争で、21世紀は「世界内戦」(カール・シュミットの言う「正戦」)が戦争の形態になると言ってましたが、このどこか抑制された戦争のあり様を見るにつけ、20世紀と違って核や経済のブレーキが利いていることはたしかな気がします。

しかし、どんな戦争であれ、真っ先に犠牲になるのは、徴兵される下級兵士や一般市民であることには変わりがありません。

ロシアでは、部分的動員令(徴兵)の発令をきっかけに、各地で戦争反対の大規模なデモが起きました。また、徴兵を逃れるために、ロシアから脱出する若者も続出しているというニュースもありました。そういった国家より自分の人生や生活が大事という”市民の論理”は、ロシアに限らずアメリカやウクライナなどの国家の論理=戦争の論理の対極にあるものです。

笠井潔は、「世界内戦の時代」は同時に「民衆蜂起の時代」でもあると言ってましたが、イランのような宗教国家においても、イスラムの戒律にがんじがらめに縛られていたように思われた民衆が、宗教警察(道徳警察)による少女虐殺に端を発して、「ハメネイ体制打倒」を掲げて蜂起しているのです。今回は、イスラム世界の中で抑圧されてきた女性たち、中でも若い女性が立ち上がったということが大きな特徴です。彼女たちの主張は、(戒律によって)スカーフで髪を覆わなければならないなんてナンセンス、自由にさせれくれ、という単純明快なものです。でも、それは、イスラム世界ではきわめてラジカルな主張になるのです。そのため、当局から狙いに撃ちされ、デモに参加した10代の若い女性の死亡が相次いでいるというニュースもありました。

ハメネイ師は、抗議デモはイスラエルからけしかけられたものだ、と言っているそうです。そんな最高指導者の発言を見ると、イランはもはや自滅の道を辿りはじめているようにしか思えません。イランの女性たちの主張に影響を与えているのは、イスラエルではなくネットです。だから、イラン当局もSNSを遮断したのです。しかし、今の流れを押しとどめることはもうできないでしょう。

それは、ロシアやウクライナも同じです。岡目八目ではないですが、傍から見ると、国家の論理が戦争の論理にほかならないことがよくわかるのでした。

ウクライナの人権団体「市民自由センター」(CCL)が、ロシアの戦争犯罪を記録しているとしてノーベル平和賞を受賞しましたが、CCLは、侵攻前まではウクライナ国内の人権問題を扱っていた団体でした。アゾフ連帯のようなファシストやウクライナ民族主義者による、ロシア語話者や労働運動家や同性愛者などに対する、暴行や拉致や殺害などの犯罪を告発していたのです。ウクライナは、マフィア=オリガルヒが経済だけでなく政治も支配し、汚職が蔓延する”腐敗国家”と言われていたのです。

元内閣情報調査室内閣情報分析官だった藤和彦氏も、次のように書いていました。

  ソ連崩壊後、ウクライナでもロシアと同様の腐敗が一気に広がった。独立後のウクライナはマフィアによって国有財産が次々と私物化され、支配権力は底なしの汚職で腐敗していった。現在に至るまでウクライナには国家を統治する知恵や経験を持った政治家や官僚がほとんど存在せず、マフィアが国家の富を牛耳ったままの状態が続いている。政党「国民の僕」を立ち上げ、大統領に就任したゼレンスキー氏も有力なオリガルヒ(新興財閥)の傀儡に過ぎないとの指摘がある。

Yahoo!ニュース
デイリー新潮
ウクライナは世界に冠たる「腐敗国家」 援助する西側諸国にとっても頭の痛い問題


私たちが連帯すべきは、国家より自分の人生や生活が大事という”市民の論理”です。それが戦争をやめさせる近道なのです。ウクライナかロシアかではないのです。勝ったか負けたかではないのです。

誰が戦争を欲しているのか。もう一度考えてみる必要があるでしょう。


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ウクライナ侵攻で薬物製造拡大の恐れ
2022.10.11 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
作家の津原泰水氏が、10月2日に亡くなったというニュースがあり、びっくりしました。

つい先日もTwitterを見たばかりでした。津原氏はわりとマメに更新する人でしたが、8月22日の引用リツイートで止まったままになっていましたので気にはなっていました。でも、まさか闘病中だとは思ってもみませんでした。

享年58歳。若すぎる死と言わねばなりません。

私は、津原泰水氏にとっては古くからの読者ではありません。津原氏を知ったのは、2018年に早稲田大学文学学術院で起きた渡部直己のセクハラ問題のときでした。

津原氏が精力的に渡部直己を批判するツイートをあげているので、この人は何だろう、と思ったのがはじまりでした。

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また、その後、『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化をめぐって幻冬舎の見城徹氏と激しい応酬があり、それも興味を持って見ていました。編集者の間では、津原氏は「ちょっと面倒くさい人」と言われていたそうですが、しかし、見城氏との激しい応酬の中で、見城徹氏の傲岸不遜な実像や幻冬舎の名物編集者の出版をエサにしたセクハラなどを浮かび上がらせた、その喧嘩上手は見事だなと思いました。もとより、作家にとって「ちょっと面倒くさい人」なんてむしろ誉め言葉です。

女優の加賀まりこが、川端康成に誘われて食事に行った際、座布団に横座りしてスカートが少しめくれたら、川端康成から「もうちょっとスカートを持ち上げて」と言われたという話をしていましたが、そういった話は枚挙に暇がありません。ノーベル賞作家で、授賞式のときに羽織袴で「美しい日本の私」と言ったとして、文壇の大家みたいな神格化したイメージがありますが、実際はロリコンの(少女が好きな)爺さんだと言う人が多いのです。今は(小市民こそリアルだとでも言いたげに)優等生のサラリーマンみたいな作家が多いのですが、もともと作家(文士)なんてそんなものです。

ただ(余談ですが)、川端康成に関しては、北条民雄を世に出したという一点において、私は個人的に尊敬しています。北条民雄が23歳で亡くなったときも、連絡を受けた川端康成は、葬儀費用を持って多摩の全生園を訪れ(お金は病院が受け取らなかった)、霊安室で北条民雄の亡骸に面会しています。また、療養所で北條と親しかった患者たちから北條の話を聞いているのでした。それは、1937年(昭和12年)12月のことで、またハンセン病(当時はらい病と言われていた)に対する差別と偏見が社会をおおっている時代でした。

小林秀雄は、北條民雄の「いのちの初夜」について、「文学そのものの姿を見た」と評したのですが、文学には、人権云々以前に、こういった人間に対する温かいまなざしがあります。それが文学の魅力なのです。

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北條民雄
いのちの初夜

津原泰水氏の名前を知ってから、『ブラバン』(新潮文庫)や『11 eleven』(河出文庫)や『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)などを読みましたが、私は若い頃、戦前の『新青年』から生まれた夢野久作や小栗虫太郎や久生十蘭や牧逸馬(林不忘、谷譲次)などの異端の作家たちの小説を片端から読んでいた時期がありましたので、津原泰水氏の作品の色調トーンもどこかなつかしさのようなものを覚えました。もっと現代における幻想小説を書いて貰いたかったと思います。いくらネットの時代になっても、人が生きて生活するその根底にあるものは変わらない(変わりようがない)のですから、幻想小説が成り立つ余地は充分あるように思うのです。

『ヒッキーヒッキーシェイク』は、ひきこもりという現代的なテーマを扱ったエンターテインメント小説ですが、少し“暗さ”が足りない気がして、その点に物足りなさを感じました。

津原氏のように、58歳という年齢であっても、ある日、病気を告知され、あれよあれよという間に人生の終わりを迎えることは誰にだってあり得ます。昨日まであんなに怒りや嘆きや、あるいは喜びや希望を語っていたのに、いつの間にかそういった観念も霧消し人生を閉じてしまう。人間は何と儚い存在なのか、とあらためて思わざるを得ません。

そして、世の中は、何事もなかったかのように、いつもの朝が来てまたいつもの一日がはじまるのです。私たちの死は、ほとんど人の目に止まることもなく、タイムラインのように日常の中を流れていくだけです。

安倍元首相の国葬の費用について、政府は十数億円と言ってますが、その中には全国から動員される警察の派遣費用などは入ってないそうで、実際にかかった費用は数十億円になるのではないかと言われています。そんな莫大な国費を使って行われた国葬を目の当たりにして以来、私は、このブログで何度も書いていますが、郊外の「福祉」専門のような病院で、人知れず亡くなっていく身寄りのない人たちのことを考えることが多くなりました。

もう帰ることはないと見込まれたのか、彼ら(彼女ら)の多くは既にアパートも解約され、全財産は、ベットの下にある生活用品が詰め込まれた数個の段ボール箱だけというケースも多いのです。そうやって死を迎えるのです。

火葬されると全財産が入った段ボール箱も焼却処分されます。身寄りがないので、1枚の写真さえ残りません。でも、彼らにだって両親がいたはずです。家族で笑いに包まれた夕餉の食卓を囲んだ思い出もあるでしょう。若い頃は、夢と希望に胸をふくらませて元気に仕事に励んだに違いありません。

東京都においては、葬祭扶助は21万円です。葬祭扶助の場合、火葬のみです。火葬料金も通常の半分で済みますので、一般葬より金額は小さいもののビジネスとしても悪くないのです。しかし、葬祭扶助を多く請け負っているのは、民間の葬儀会社ではありません。福祉事務所から直接委託される「福祉」専門のような葬儀業者(団体)があり、そこが圧倒的なシェアを占めているそうです。その業者(団体)の現場以外の要職は、トップをはじめ天下りの元公務員で占められているおり、葬祭扶助などの「福祉」関係だけで年間7億円の”売上げ”があるのだとか。

生活保護受給者と言っても、病気になる前から受給していたとは限らないのです。中には、病気をして手持ちのお金がなくなり、医療費の支払いに窮して、病院のケースワーカーを通して申請するケースもあるのです。

しかし、生活保護受給者に突き付けられるのは、「自己責任」の冷たいひと言です。数十億円の公金を使い国をあげて手厚く葬られる政治家がいる一方で、税金の無駄使いのように誹謗され、まるで世捨て人のように事務的に処理され火葬場に送られる人たち。柳美里の『JR上野駅公園口』ではないですが、この天と地の違いは何なのかと思ってしまいます。

そう考えると、北條民雄がそうであったように、作家は死んでもなお作品が残り、読み継がれていくので、まだ幸せだと言えるのかもしれません。少なくとも救われるものはあるでしょう。


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国葬における菅義偉元首相の弔辞をめぐって、テレビ朝日「モーニングショー」のコメンテーターの玉川徹氏がバッシングされています。

バッシングの先頭に立っているのは、ネトウヨの他に、橋下徹やほんこんやロザンの宇治原などのような安倍応援団のタレントや、西田昌司や細野豪志や和田政宗といったいわくありげな議員たちです。彼らの主張は、玉川氏を番組から降板させろという一点に尽きます。それは、言論の公平性云々というより、多分に政治的なスタンスによる“報復”の意味合いが強いように思います。彼らの中に、玉川=テレビ朝日=朝日新聞=パヨク=反日というお得意の妄想が伏在しているのは間違いないでしょう。

ちなみに、橋下徹とほんこんは、菅元首相の弔辞について、次のように発言していたそうです。

  橋下徹・元大阪市長は「菅さんと安倍さんは明らかに友人、友情…失礼な言い方かもしれませんけど純粋な小学校、中学校、高校生の友情関係を強く感じましたので、それが強く表れた最後の言葉だったと思います」と声を震わせた。

  ほんこんも「心温まる、感動的な弔辞。新聞の記事で全文を読ませていただいて、凄いなと思ったところで、涙してしまうというところでございました」と絶賛。

リテラ
菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを


西田昌司氏は、極右の議員として知られていますが、有田芳生氏とともに、ヘイトスピーチ対策法の成立に尽力した議員でもあり、私も当時、有田氏のツイッターに西田氏の名前がしばしば出ていたいたのを記憶しています。

ネットをググったら、こんな有田氏のツイートが出てきました。


その西田議員が玉川バッシングの先頭に立っており、国会でも取り上げると息巻いているそうです。今の私には、だから言わんこっちゃない、という気持しかありません。

下記のブログの記事を読んでもらえばわかりますが、私は、ヘイトスピーチ対策法には「反対」でした。

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国家でも政治でも警察でも父親でも何でもいいのですが、権力を一義と考えるような考え方は、西田昌司議員には一貫しているのです。全体主義的な権力志向は、右にも左にも共通したものがあります。ヘイトスピーチ対策法に対しても、そういった懸念がありました。

菅氏の弔辞に関しては、弔辞に感動したとして、中には再登板の声まで出ているというのですから、口をあんぐりせざるを得ません。

一部のネトウヨや極右の安倍応援団の人間たちの感動話を、スポーツ新聞や週刊誌などのコタツ記事が取り上げて、それをYahoo!ニュースが拡散するという構図がここでも見られますが、その狙いについては私も前の記事で次のように書きました。

国葬が終わった途端、二階俊博元幹事長が言っていたように、「終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という方向に持って行こうとするかのような報道が目立つようになりました。その最たるものが、菅元首相の弔辞に対する本末転倒した絶賛報道です。今、問われているのは、安倍元首相の政治家としてのあり様なのです。クサい思い出話や弔辞の中に散りばめられた安っぽい美辞麗句や修辞なんかどうだっていいのです。弔辞は、当然ながら安倍元首相を美化するために書かれたものです。この当たり前すぎるくらい当たり前の事実から目を背けるために、弔辞に対する絶賛報道が行われているとしか思えません。※1

国葬では、安倍元首相のピアノ演奏や金言集のような演説の動画が流されていましたが、あれだって編集した誰かがいるのです。仮にゴーストライター(スピーチライター?)がいても、ゴーストライターがいるなんて言うわけがありません。こんな「名文」を貶めるなんて許さないぞという恫喝は、同時に「名文」が持ち上げる安倍の悪口を言うことは許さないぞ、という恫喝に連動していることを忘れてはならないのです。その心根は、旧統一教会のミヤネ屋に対する恫喝まがいのスラップ訴訟にあるものと同じで、Yahoo!ニュースや東スポやSmartFLASHや現代ビジネスやディリー新潮などのような品性下劣なメディアは、ネトウヨと一緒になってその恫喝にひと役買っているのです。※2

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Yahoo!ニュースやスポーツ新聞や週刊誌などに対しては、どの口で言っているんだ、としか思えませんが、それよりもっと違和感を抱くのは、このようにいざとなればみんな右へ倣いして同調する彼らの翼賛的な姿勢に対してです。へそ曲がりの異論さえないのです。しかも、そういった空気を誘導しているのは、ネトウヨまがいのタレントや政治家です。言論を封殺するだけが目的のような連中に、何の留保もなく同調しているのです。言論がこういった下等物件( © 竹中労)たちに占有され弄ばれているのです。

もっとも、こういった言論がどうのというようなもの言いは、今の彼らには馬の耳に念仏かもしれません。東スポでは現在100名のリストラが行われているそうですが、他のスポーツ新聞や週刊誌なども似たようなものでしょう。貧すれば鈍すではないですが、青息吐息のスポーツ新聞や週刊誌は、今やテレビで誰がどう発言したとかいう1本千円もしないコタツ記事をアルバイトの素人ライターに発注して、それで日々のウェブを穴埋めしているのが現状です。そんなコタツ記事をYahoo!ニュースがピックアップして、バズらせてアクセスを稼ぎマネタイズしているのです。彼らにとって、ニュースの価値は、どれだけバズりアクセスを稼ぐかなのです。

もうひとつ、今回のバッシングがこれほど広がったのは、「電通」の名前を出したことも大きいでしょう。言うなれば虎の尾を踏んだようなものです。それで、電通から広告のおこぼれを頂戴している物乞いみたいなメディアが、いっせいにはせ参じてバッシングの隊列に加わったということもあるのではないか。

私も最初、国葬は電通案件ではないかと思っていましたが、しかし、今でも桜を見る会の業者がすべてを仕切ったというのは信じ難い気持があります。それに、玉川氏のバッシングに目を奪われたことで、国葬が一体いくらかかかったのか、という話もどこかに行ってしまったのでした。

そんな中、リテラは、菅元首相の弔辞が実は「使い回しだった」という記事を書いて、強烈なカウンターを放ちました。リテラが、週刊誌の得意技であるスカートめくりをやったのです。それも、よりによって「安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタ」の「使い回しだった」と言うのですから驚きです。それが感動の中身だったのです。

本来ならこういう取材こそスポーツ新聞や週刊誌の仕事のはずですが、彼らは子どもでも書けるようなコタツ記事でバッシングの隊列に加わり、総務省のドンと電通に忠誠を誓うだけです。竹中労だったら、野良犬が餌をもらうために列を作ってどうするんだ、と言うでしょう。

私は、菅義偉氏が総理大臣になったとき、菅義偉氏は政治家ではなく政治屋だと書きましたが、ここでも政治屋・菅義偉の面目躍如たるものがあるような気がしてなりません。

リテラは次のように書いています。

  (略)菅本人も調子に乗って、御用メディアであるABEMAの独占インタビューに応じ、以下のように追悼の辞の執筆エピソードを開陳する始末だった。

「提案があったので、『大変だ』と思って一生懸命資料集めから。一気にではなくまず全体像を入れていくというか、“何をして、何をして…”という構想からした。それと、私自身が今まで発言したものを集めていき、(完成形になったのは)意外に早かった」

リテラ
菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを


  (略)菅前首相は弔辞でこう語っていた。

〈衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。
そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ〉

  ようするに、菅氏は、安倍氏の死後、倒れる直前まで読んでいた本を発見。その読みかけの最後のページに、暗殺された伊藤博文を偲ぶ山縣有朋の歌が載っており、それがいみじくも、自分の思いを表していると語ったのだ。
(同)


しかし、岡義武が書いた『山縣有朋 明治日本の象徴』(岩波新書)は、安倍元首相が2014年12月27日に、ホテルオークラの日本料理店で会食した際、葛西敬之JR東海名誉会長(当時)から薦められた本だそうです。

それから8年も経っているのに、まだ「読みかけ」だったというのは、あまりにも不自然だ、とリテラは書いていました。

実際に、安倍元首相は、2015年1月12日のフェイスブックに「読みかけの『岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴』 を読了しました」と投稿しているそうです。さらに投稿の中で、「伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、『かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ』と詠みその死を悼みました」と、わざわざ菅氏が弔辞で引用した歌まで紹介しているのだそうです。

ただ、マーカーペンがホントであれば、今年の5月25日に葛西敬之氏が亡くなり、6月15日に安倍元首相と同じ芝の増上寺で葬儀が執り行われ、その際、安倍元首相が弔辞を読んでいますので、そのために再び本を開いて準備をしていたということも考えられなくもありません。そこにたまたま菅元首相が訪ねて来たと。

安倍元首相は、葛西氏が亡くなった際も、フェイスブックに次のように投稿していたそうです。

一昨日故葛西敬之JR東海名誉会長の葬儀が執り行われました。
常に国家の行く末を案じておられた葛西さん。
国士という言葉が最も相応しい方でした。
失意の時も支えて頂きました。
葛西さんが最も評価する明治の元勲は山縣有朋。
好敵手伊藤博文の死に際して彼は次の歌を残しています。
「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」
葛西さんのご高見に接することができないと思うと本当に寂しい思いです。
葛西名誉会長のご冥福を心からお祈りします。


もっとも、山縣有朋は、日本軍国主義の元祖みたいな人物で、治安警察法や教育勅語をつくらせた人物です。安倍や菅が、そんな人物の歌を美談仕立てで取り上げるというのは、彼らのアナクロな思想の一端が伺えるのです。

リテラは、記事の中で、菅氏が政治家ではなく政治屋である一面を次のように指摘していました。

そもそも、弔辞というのは故人を偲び、故人に捧げる言葉。メディアに出て、故人を偲ぶのならともかく、弔辞をこう考えてつくったとか、こういうギャンブルでこういう表現を盛り込んだとか、いちいち自慢話する人なんて、見たことがない(普通に考えて、一般人の葬式でもそんな弔辞自慢する人って、ほとんどいないだろう)。
(同)


こういうのを品性下劣と言うのではないでしょうか。

また、朝日新聞も、弔辞について、文庫の解説者の空井護・北海道大教授にインタビューしていましたが、その中で、空井教授は次のように言っていました。

朝日新聞デジタル
菅前首相が引用した「山県有朋」 文庫解説者「出来すぎた話ですね」

菅さんが同書を読んで、「これだ!」と思ったのなら自然です。しかし、安倍さんが生前読んだ「最後のページ」に、マーカーが引かれていたのを菅さんが見つけたなんて。そんな奇遇がこの世の中にはあるんですね。


玉川徹氏には、10日間の出勤停止処分が下されたようですが、今のテレビ朝日は「早河帝国」とヤユされるほど会長兼CEOの早河洋氏の「独裁体制」にあるので、早河氏の鶴の一声で玉川徹氏がこのまま(安倍応援団が望むように)フェードアウトする可能性もなきにしもあらずでしょう。

テレビ朝日は、早河氏の秘書だった女性が人事局長に大抜擢されたことなどもあって、昨年は、元編成部長や元人事局長などが早期退職するなど、大株主の朝日新聞も制御不能な状態になっている、と『ZAITEN』(10月号)は書いていました。

「誰が社長になっても同じ」
  口に出さなくてもテレ朝社員の大多数がそう思っている。社長は“飾り”でしかなく、唯一無二の最高権力者はテレ朝及び持ち株会社の、テレビ朝日ホールディングス(HD)双方の代表取締役会長を務める早河洋(78)であることは新人社員でも知っている。
(『ZAITEN』10月号・「老衰する『テレビ朝日』の恍惚」)


旧統一教会の問題でも、フジサンケイグループともども、テレ朝の腰が引けた姿勢が指摘されましたが、それも自民党(安倍)と近い「専制君主」の意向がはたらいていたからだ、と言われていました。

菅義偉元首相は、長男の接待問題があったように、総務省に大きな力を持つ議員です。それを考えると、玉川氏の運命は決まったようなものと言えるのかもしれません。それを「ざまあ」と言わんばかりにネトウヨや安倍応援団と一緒になって叩いている、Yahoo!ニュースのようなネットメディアやスポーツ新聞や週刊誌は、あまりにもおぞましくあさましいとしか言いようがありません。
2022.10.05 Wed l 社会・メディア l top ▲
資本主義の終焉と歴史の危機


『週刊エコノミスト』の今週号の「金融危機に学ぶ」という小特集の中で、水野和夫氏は「資本主義は終焉を迎えた」と題して、次のように書いていました。尚、文中の「97年」というのは、四大証券」の一角を占めていた山一証券が自主再建を断念して廃業を決めた「1997年11月」を指しています。これは、「97年11月」を日本経済がバブル崩壊に至るメルクマークとして、5人の識者が当時の思いを綴る企画の中の文章です。

  97年は長期金利が初めて2%を割り込んだ節目でもある。翌98年以降も1%台が常態化、政府の景気対策で一時的に景気が上向いても2%を超えることはなくなり、今やゼロ%に至った。これは日本が十分に豊かになり、投資先がなくなったことを意味する。すなわち、投資して資本を増やし続けるという資本主義の終焉しゅうえんだ。この25年間で私たちはこのことを理解する必要があった。
  ところが、政府は成長至上主義を捨てられず、需要不足だからと日銀は延々と異次元緩和を続けている。需要不足ではなく、供給が過剰なのだ。その結果、格差拡大や社会の分断をより深刻化してしまった。カネ・モノの豊かさを求める強欲な資本主義を早く終わらせ、心豊かに暮らせる持続可能な社会への転換が急務だ。
(『週刊エコノミスト』10月11日号・水野和夫「資本主義は終焉を迎えた」)


昨日(10月3日)からはじまった臨時国会の所信表明演説で、岸田首相は、「経済の再生が最優先課題」だとして、いちばん最初に、インバウンド観光の復活による「訪日外国人旅行消費額の年間5兆円超の達成という目標を掲げた」(朝日の記事より)そうです。

経済を再生するのにそれしかないのか、と突っ込みたくなるような何とも心許ない話です。文字通り、観光しかウリがなくなった日本の落日を象徴するような演説だったと言えるでしょう。

私は、2014年の4月に、このブログで下記のような記事を書きました。

これを読むと、8年前に書いたものとは思えないほど、背景にある状況が今とほとんど変わってないことに自分でも驚きます(違うのはアメリカ大統領の名前くらいです)。文中の「ウクライナ問題」というのは、2014年にウクライナで発生したウクライナ民族主義によるマイダン革命に対抗して、ロシアがクリミア半島(クリミア自治共和国)とウクライナ本土のドンバス地方(ドネツィク州とルハーンシク州)を実効支配したことを指しています。以下、再録します。

水野和夫氏は、新著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションについて、つぎのように書いていました。

 そもそも、グローバリゼーションとは「中心」と「周辺」の組み替え作業なのであって、ヒト・モノ・カネが国境を自由に越え世界全体を繁栄に導くなどといった表層的な言説に惑わされてはいけないのです。二〇世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)でしたが、二一世紀に入って、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層になるという組み替えがおこなわれました。


グローバリゼーションとは、資本が国家より優位に立つということです。その結果、国内的には、労働分配率の引き下げや労働法制の改悪によって、非正規雇用という「周辺」を作り、中産階級の没落を招き、1%の勝ち組と99%の負け組の格差社会を現出させるのです。当然、そこでは中産階級に支えられていた民主主義も機能しなくなります。今の右傾化やヘイト・スピーチの日常化も、そういった脈絡でとらえるべきでしょう。水野氏が言うように、「資本のための資本主義が民主主義を破壊する」のです。

一方で、「電子・金融空間」には140兆ドルの余剰マネーがあり、レバレッジを含めればこの数倍、数十倍のマネーが日々世界中を徘徊しているそうです。そして、量的緩和で膨らむ一方の余剰マネーは、世界の至るところでバブルを生じさせ、「経済の危機」を招いているのです。最近で言えば、ギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機などもその好例でしょう。それに対して、実物経済の規模は、2013年で74.2兆ドル(IMF推定)だそうです。1%の勝ち組と99%の負け組は、このように生まれべくして生まれているのです。アメリカの若者が格差是正や貧困の撲滅を求めてウォール街を占拠したのは、ゆえなきことではないのです。

もちろん、従来の「成長」と違って、新興国の「成長」は、中国の13.6億人やインドの12.1億人の国民全員が豊かになれるわけではありません。なぜなら、従来の「成長」は、世界の2割弱の先進国の人間たちが、地球の資源を独占的に安く手に入れることを前提に成り立っていたからです。今後中国やインドにおいても、経済成長の過程で、絶望的なほどの格差社会がもたらされるのは目に見えています。

水野氏は、グローバリゼーションの時代は、「資本が主人で、国家が使用人のような関係」だと書いていましたが、今回のオバマ訪日と一連のTPP交渉も、所詮は使用人による”下働き”と言っていいのかもしれません。ちなみに、今問題になっている解雇規制の緩和や労働時間の規制撤廃=残業代の廃止なども、ご主人サマの意を汲んだ”下働き”と言えるでしょう。

史上稀に見る低金利政策からいっこうに抜けだせる方途が見出せない今の状況と、国民国家のかせから解き放され、欲望のままに世界を食いつぶそうとしているグローバル企業の横暴は、水野和夫氏が言うように、「成長」=「周辺」の拡大を前提にした資本主義が行き詰まりつつことを意味しているのかもしれません。少なくとも従来の秩序が崩壊しつつあることは間違いないでしょう。それは経済だけでなく、政治においても同様です。ウクライナ問題が端的にそのことを示めしていますが、アメリカが超大国の座から転落し、世界が多極化しつつあることは、もはや誰の目にもあきらかなのです。日米同盟は、そんな荒天の海に漂う小船みたいなものでしょう。

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この8年間で資本主義の危機はいっそう深化しています。日本だけがマイナス金利政策から抜け出せないことを見てもわかるとおり、とりわけ日本の危機が際立っています。岸田首相の中身のない所信表明がその危機の深刻さを何より表していると言えるでしょう。

でも、その危機は、アメリカの危機=政治的経済的な凋落に連動したものである、ということを忘れてはなりません。20数年ぶりの円安がそれを象徴していますが、日米同盟はもはや難破船のようになっているのです。

今問題となっている物価高を見ても、その深刻さは度を越しています。今年の8月までに値上げの対象となったのは、再値上げなどを含めて累計18,532品目に上り、値上げ率は平均で14%だったそうです。

さらに、ピークとなったこの10月に値上げになったのは、食品や飲料だけでも6,500品目を超えているそうです。もちろん、食品や飲料以外にも、電気料金やガス料金、電車やバスの交通費、あるいは外食費や日常雑貨や各保険料など値上げが相次いでいます。また、同時に、食品を中心に内容量を減らす「ステレス値上げ」も横行しています。

収入が増えず購買力が低下しているのに、物価だけが上がっていくというのは、文字通りスタグフレーションの到来を実感させられますが、しかし、この国の総理大臣は、経済再生は外国人観光客の懐が頼りだと、浅草のお土産屋の主人と同じようなことしか言えないのです。

『週刊東洋経済』の今週号の「少数異見」というコラムで、8月にチュニジアで開かれたアフリカ開発会議(TICAD)が「盛り上がりを欠いたまま閉幕した」ことが取り上げられていました。

TICADは、日本と50カ国以上のアフリカ諸国の首脳が3年に一度集まる会議で、1993年からはじまり今回が8回目だったそうです。

1993年は日本がイケイケドンドンの時代で、経済力で途上国への影響力を持ちたいという大国意識の下、政府開発援助(ODA)の予算を年々積み重ねていた時代だったのです。

でも、それも今は昔です。「もはや大国ではない」という中見出しで、コラムは次のように書いていました。

  しかし、今や日本はミドルパワーだ。世界第2位の経済・技術大国ではなく、「アジアを代表する大国」ですらない。中韓はもちろんASEANのいくつかの国は同格かそれ以上の力をつけた。米中対立は激化し、ロシアは牙をむき始めた。日本が謳歌してきた米国一極による世界秩序の安定は揺らぎ、強い円も失いつつある。日本の対外政策の前提となったファンダメンタルズはもはや存在しない。
(『週刊東洋経済』10月8日号・「少数異見」)


そんな日本は「ただ縮むだけで未来がない」と言うのです。
2022.10.04 Tue l 社会・メディア l top ▲
東電OL殺人事件


ノンフィクション作家の佐野眞一氏が9月26日に亡くなった、というニュースがありました。

私が佐野氏の本の中で印象強く残っているのは、何と言っても『東電OL殺人事件』(新潮社)です。事件が発生してから15年後に再審請求が認められ、服役していたネパール人男性の無罪が確定するというドラマチックな展開もあって、事件のことを書いた私のブログの記事に、一日で4万を越えるアクセスが殺到したという出来事もありました。

佐野氏の著書でベストスリーをあげれば、『東電OL殺人事件』の他に、『あんぽん  孫正義伝』(小学館)と大宅ノンフィクション賞を取った『旅する巨人  宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋)です。

佐野氏は、民俗学者の宮本常一に私淑しており、宮本常一に関する本を多く書いています。ノンフィクションを「現代の民俗学」とも言っていました。宮本の聞き書きは、ルポルタージュの取材と通じるところがあり、そういった宮本の取材方法に惹かれるところがあったのかもしれません。

佐野氏は、著書で、ノンフィクションは「固有名詞と動詞の文芸である」と書いていたそうですが、佐野氏の特徴は、仮にテーマが事件や企業であっても、その中心に人物を据え、その人物を通してテーマの全体像を描写していることです。そのスタイルは終始一貫していました。だから一方で、橋下徹を扱った「ハシシタ・奴の本性」(週刊朝日)のような勇み足を招いてしまうこともあったのだろう、と思います。

また、私もこのブログで、木嶋佳苗のことを何度も書いていますが、彼女に対する記事に関しても、トンチンカンな感じは免れずがっかりしたことがありました。

佐野氏のようなスタイルでノンフィクションを書くと、どうしても主観的な部分が表に出てしまうので、ときに氏の粗雑で一方的な人間観が露呈することもあったように思います。

もちろん、溝口敦氏の記事を盗用・剽窃したような負の部分も見過ごしてはなりません。「ノンフィクション界の巨人」という呼び方もいささかオーバーな気もしました。

竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」と書いていました。そして、彼らに向けて、次のようにアジっていました。

  ピラニアよ、狼よ群れるな!  むしろなんの保証も定収入もなく、マスコミ非人と蔑視される立場こそ、もの書きとしての個別自由な生きざま、死にざまはあるだろう。


佐野氏は、大手出版社に囲われている”大家”のような感じがありましたので、竹中労が言うような一匹オオカミのルポライターのイメージとはちょっと違っていました。それが、夜郎自大な盗用・剽窃事件にもつながったのかもしれません。

佐野氏自身、橋下徹に対する”筆禍事件”で筆を折ると言っていましたので(個人的には、筆を折るほどのことではなかったと思いますが)、最近どんな活動をしていたのかわかりませんが、しかし、昨今の言論をとりまく状況には、古くからの書き手として忸怩たるものがあったはずです。

たまたまYouTubeで竹中労の動画を観ていたら、竹中労が、『失楽園』で有名な17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『アレオパジティカ』の中の次のような言葉を紹介しているのが目に止まりました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」

『言論・出版の自由  アレオパジティカ』が出版されたのは1644年ですが、同書は、当時、政府による検閲と出版規制が復活したことに対して、それを批判するために書かれた、言論・出版の自由に関する古典的な名著です。

ミルトンは、「Free and Open Market of Ideas」という言い方をしていますが、開放された自由な市場(場)で、喧々諤々の議論を戦わせれば、偽り(fake)は放逐され真実(truth)が勝つ。おのずと、そういった自律的な調整が行われる、と言っているのです。それが自由な言論ということです。

しかし、最近は、特にネットにおける言論に対して、規制を求める声が大きくなっています。メディア自身がそういった主張をしているのです。その声を受けて、10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されました。それに伴い、インターネットの発信者情報の開示に非訟手続が新設されて、手続きが簡略化されることになりました。これによって、誹謗中傷などを訴える際のハードルが低くなったと言われています。

ミルトンは、検閲がカトリック教会の“異端狩り”の中から生まれた概念であることを解き明かした上で、次のように言っています。

人は真理においても異端者でありうる。そして単に牧師がそう言うからとか、長老の最高会議でそう決まったからとかいうだけで、それ以外の理由は知らないで物事を信じるならば、たとえ彼の信ずるところは真実であっても、なお彼の信ずる真理そのものが異端となるのである。


また、竹中労は、同じ動画で、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥが書いた『オンディーヌ』の中の「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」という言葉も紹介していました。

どこまでが誹謗中傷で、どこまでが批判(論評)かという線引きは、(極端な例を除いては)きわめて曖昧です。というか、そもそもそういった線引きなど不可能です。

私も、このブログを17年書いていますが、私のような人間でさえ自由がどんどん狭められているのを感じます。この17年間でも、息苦しさというか、自然と忖度するような(させられるような)空気が広がっているのをひしひしと感じてなりません。

自分たちが他人を誹謗中傷しながら、二言目には名誉棄損だと言い立てるような「水は低い方に流れる」言説がネットには多く見られます。自分と異なる意見に対して、「言論でのみ戦う」のではなく、「異端審問官」の力を借りてやり込めようとするような「自分で自分の首を絞める」愚劣なやり方が、当たり前のようにまかり通っているのです。その最たるものがスラップ訴訟でしょう。

ユヴァル・ノア・ハラリなどが指摘していたように、新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけに、国家の庇護や生活の便利さと引き換えに、自分たちの基本的権利を何のためらいもなく国家や企業に差し出すような、身も蓋もない風潮がいっそう加速されました。国家の側にも、政治的には中国を敵視する一方で、国家運営においては中国のようなIT技術を使った人民管理をお手本とするような本音が垣間見えるのでした。行政官の目には、中国のような徹底的に効率化された行政システムは理想に映るでしょう。

ネットの時代は、「総表現社会」の到来などと言われましたが、その言葉とは裏腹に、不自由な空気ばかりが広がっているような気がしてなりません。ネット社会は、文字通り“異端狩り”が常態化・日常化した社会でもあるのではないか、と思わざるを得ません。

今やYahoo!ニュースのようなネットのセカンドメディアをおおっているのは、手間とお金をかけない、子どもでも書けるようなコタツ記事ばかりです。ネットメディアだけでなく、スポーツ新聞や週刊誌のような旧メディアも、最後の悪あがきのように、ネット向けにコタツ記事を量産しています。それは、みずからが淘汰される運命にあることを認めたようなものでしょう。

不謹慎な言い方ですが、佐野眞一氏は、今の言論をとりまく惨憺たる状況の中で、亡くなるべくして亡くなった、と言っていいのかもしれません。彼のようなライターが書く場は、もうほとんど残ってないのです。


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2022.10.02 Sun l 訃報・死 l top ▲
世界は、資本蓄積に必要な資源の変遷とともに、100年ごとに覇権が変わっていくという壮大な理論があります。

まず19世紀の最初の100年は石炭のイギリス(大英帝国)、次の100年は石油のアメリカでした。そして、現代はレアメタルの中国に覇権が移りつつある、と言うのです。新型コロナウイルスによるパンデミックがそれを(覇権の移譲)をいっそう加速させる役割を果たした、と。しかも、国家間はしばらく「対立」が続くものの、覇権の移譲は、本質的には「対立」ではなく資本の「コンセンサス」だと言います。

対米従属が骨の髄まで沁み込んだ日本人にとっては、背筋に冷たいものが走るような話かもしれません。

その中国ですが、日本などと同じように、1995年代後半から2009年生まれのZ世代が消費の中心になりつつあり、既にZ世代は約2億8千万人おり、全人口の約18.1%を占めるまでになっているそうです。

先日もTBSのNews23でやっていましたが、この世代の特徴は、前の世代のような「海外ブランドを仰ぎ見るような感覚」(人民網日本語版)がないことだそうです。むしろ、「国潮」(国産品)を着ることがトレンドにさえなっている、と言うのです。

そう言うと、日本人は、中国政府の政策で愛国主義が台頭して、それが消費動向にも反映されているからだろう、というような見方をする人間が多いのですが、必ずしもそうではなく、外国製品に引けを取らないほど中国製品のクオリティが上がっている、という理由が大きいのです。若者たちは、「国内ブランドのデザインには生まれ変わったような感じがあり、モデルの更新ペースも速い」(同)という印象を持っているそうです。

私も前にハイアールの話をしましたが、もう中華製の安かろう悪かろうの時代は終わったのです。ましてハイテク製品の分野では中国はトップを走っています。だから、西側の国はあんなにファーウェイを怖れたのでしょう。

昨日もテレビ東京で、中国に出店していた飲食や小売などの企業が撤退するケースが多くなっており、やはり中国進出は「政治のリスクが大きすぎる」というようなニュースをやっていましたが、それは「政治のリスク」ではなく、「国潮」の台頭が要因と考えるべきでしょう。

来月11日から入国規制が全面解除になりますが、中国人観光客がホントに以前のように戻ってくるのか、楽観視はできないように思います。まして、かつてのような”爆買い”は期待できないのではないか。もちろん、円安が追い風であることはたしかですが、中国もどんどん豊かになっており、上で見たように消費のトレンドが大きく変わっているのです。

今年は日中国交正常化50周年だそうですが、アメリカの尻馬に乗って対中強硬策を取っても(それこそ「政治のリスク」を負っても)、泣きを見るのはどう考えても日本の方です。武士は食わねど高楊枝では国はやっていけないのです。

下の表のように、コロナ前の2019年の外国人観光客の地域別のシェアを見ると、アジアからの観光客が圧倒的に多く、全体の82.7%です。中でも東アジアが70.1%を占めています。テレビ東京「Youは何しに日本へ?」でインタビューするのは、何故か欧米豪の観光客ばかりですが、彼らは13.0%にすぎません。

国別のシェアを見ても、中国本土からの観光客が959.4万人で、東アジアの中で42.9%を占めています。香港を含めると53.1%になります。

2019年訪日外国人旅行者地域国別シェア
2019年訪日外国人旅行者地域国別シェア
※国土交通省観光局資料より抜粋

次の消費額(つまり、経済効果)を見ると、中国人観光客の存在感がいっそう際立ちます。外国人観光客が日本で消費したお金の総額は4兆8千135億円ですが、国別では、1位が中国1兆7千704億円、2位が台湾9千654億円、3位が韓国4千247億円です。中国人観光客は、買物だけでも9千365億円も消費しているのです。

2019年訪日外国人旅行消費額
2019年訪日外国人旅行消費額
※国土交通省観光局資料より

そんな中で、中国経済が発展して消費のトレンドが変わっていることは、日本の観光にとっても不安材料です。日本製品に対する魅力が薄れていくだけでなく、日本の食べ物や観光地に対しても同様に魅力を失っていく懸念があります。ましてや、”アジア通貨危機”に見舞われたら観光立国どころではなくなるでしょう。

一方で、円安で益々日本が「安い国」になったことにより、不動産や企業が中国資本に買い漁られている、という現実があります。数年前に、千代田区などの都心の一等地の高級マンションが中国人に買われており、特に角部屋などの「いい部屋」を買っているのは中国人ばかり、という話をしましたが、その傾向は益々強くなっているのです。現在、マンション価格がバブル期を凌ぐほど高騰しているのも、日本人ではなく中国人が作った市況なのです。

安い国ニッポン。その恩恵に浴しているのは、中国をはじめとする外国資本で、肝心な日本人は給与は上がらない上に逆に物価高で苦しんでいるあり様です。そのために、手元の物を質入れするみたいに、日本の資産を外国資本に売り渡しているのです。”アジア通貨危機”も、中国にとっては絶好のチャンスと映るでしょう。

とは言え、(何度も言うように)日本はもはや観光しかすがるものがないのです。何とも心許ない話ですが、とにかく、みんなで揉み手してペコペコ頭を下げるしかないのです。神社で米つきばったみたいに三拝している日本人を見て、白人の若いカップルが手を叩いて笑っていましたが、いくら笑われても頭をペコペコ下げるしかないのです。

安倍元首相は、「愛国」を隠れ蓑に、旧統一教会に「国を売った」だけでなく、アベノミクスによって日本を八方塞がりの「安い国」にしてしまったのです。これでは「国賊」と言われても仕方ないでしょう。なのに、どうして「安倍さん、ありがとう」なのか。しかも、よりによって旧統一教会と一緒に、そう合唱しているのですから何をか言わんやでしょう。


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2022.09.30 Fri l 社会・メディア l top ▲
ジョーカー


国葬では、菅元首相の弔辞が参列者の涙を誘ったそうで、菅元首相は文才があると書いているメディアもありましたが、その前に、国葬と言っても、実際はイベント会社がとりしきる内閣のイベント(国が主催する「お別れの会」)であった、ということを忘れてはならないでしょう。小泉政権のシングルイシューの”郵政選挙”で知られるところとなりましたが、もはや政治と広告代理店は切っても切れない関係にあるのです。

また、ネットを見ていたら、「小林よしのり氏、安倍元首相国葬で2万人超訪問の一般献花に私見『統一教会の動員で十分集まる』」(日刊スポーツ)というニュースの見出しがありました。

それで、小林よしのり氏のブログを見たら、次のように書いていました。

YOSHINORI KOBAYASHI BLOG
献花2万人超は統一協会の動員で十分

秘書みなぼんが昨夜、こうメールしてきた。
「一般の献花に行列ができたことを、Hanada、WiLLはじめネトウヨは『これが日本人の本当の民意だ!』『国葬に半数以上が反対とか偏向報道だったんだ!』とか騒いでいて滑稽ですw こんな平日に献花で並ぶとか、統一協会の信者もかなり動員されてますよね」

確かに献花がたった2万人超なら、統一協会の動員で十分集まる。
統一協会の権力浸食問題は、そういう邪推や偏見を生んでも仕方がないということなんだ。
わしも統一協会が献花に来ないはずないと思っているがな。(略)


平日の昼間なのに、2万5889人(政府発表)の人たちが献花に訪れ、3時間も4時間も並んでいたのです。しかも、インタビューによれば、遠くからわざわざ訪れた人たちも結構いるのです。山梨から献花に訪れたと答えていた親子連れがいましたが、子どもは学校を休んで来たんだろうか、と思いました。

旧統一教会にとって、安倍(岸)一族は、教団の財政を支える「資金源」を与えてくれた大恩人です。それこそ足を向けて寝られないような存在です。

8月16日にソウルで開かれた、故文鮮明教祖の没後10年を記念するイベントでも、安倍晋三元首相を追悼する催しが行われ、スクリーンに大きく映し出された安倍元首相の写真に向かって参加者が献花をしていました。昨日の国葬でも、多くの信者たちが行列に並んでいたとしても不思議ではないでしょう。

テレビ東京の「世界ナゼそこに?日本人」で取り上げられた中に、合同結婚式でアフリカなどの奥地に嫁いだ日本人花嫁が多く含まれていたという話がありましたが、昨日の国葬でも、もしかしたら、献花の花束を持って並んでいた信者をインタビューして、「賛否両論あります」なんて言っていたのかもしれません。

国葬が終わった途端、二階俊博元幹事長が言っていたように、「終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という方向に持って行こうとするかのような報道が目立つようになりました。その最たるものが、菅元首相の弔辞に対する本末転倒した絶賛報道です。今、問われているのは、安倍元首相の政治家としてのあり様なのです。クサい思い出話や弔辞の中に散りばめられた安っぽい美辞麗句や修辞なんかどうだっていいのです。弔辞は、当然ながら安倍元首相を美化するために書かれたものです。この当たり前すぎるくらい当たり前の事実から目を背けるために、弔辞に対する絶賛報道が行われているとしか思えません。※1

国葬では、安倍元首相のピアノ演奏や金言集のような演説の動画が流されていましたが、あれだって編集した誰かがいるのです。仮にゴーストライター(スピーチライター?)がいても、ゴーストライターがいるなんて言うわけがありません。こんな「名文」を貶めるなんて許さないぞという恫喝は、同時に「名文」が持ち上げる安倍の悪口を言うことは許さないぞ、という恫喝に連動していることを忘れてはならないのです。その心根は、旧統一教会のミヤネ屋に対する恫喝まがいのスラップ訴訟にあるものと同じで、Yahoo!ニュースや東スポやSmartFLASHや現代ビジネスやディリー新潮などのような品性下劣なメディアは、ネトウヨと一緒になってその恫喝にひと役買っているのです。※2

ここに至っても、文化庁の担当者は、「解散命令を請求するのは難しい」と言ってくれるし、そうやって安倍を庇うことで自分たちも庇ってくれるのですから、教団にとって日本はどこまでもアホでチョロい存在に見えるでしょう。

一方、上映を国葬当日にぶつけた『REVOLUTION +1』は、狙い通りかどうかわかりませんが、大きな話題になっています。ただ、2日間限定で上映されたのはあくまで編集前のラッシュなので、当然毀誉褒貶があります。だからこそ、否が応でも、劇場用に編集された本編に対する期待が高まってくるのでした。

そんな中、やはり上映会の会場に来ていた切通理作氏が、みずからのユーチューブチャンネルで、町山智浩氏と『REVOLUTION +1』について語っていたのを興味を持って観ました。

YouTube
切通理作のやはり言うしかない
切通理作/足立正生作品『REVOLUTION +1』を語る【特別ゲスト】町山智浩

動画では、いろんな角度から『REVOLUTION +1』が論じられていました。これだけ論じられるというのは、国葬にぶつけたという話題だけにとどまらず、足立正生監督の新作が出たこと自体が既に「事件」だったということなのでしょう。

編集前ということもあるのでしょうが、『REVOLUTION +1』が今までのシュールレアリスムの手法を使った足立作品に比べれば、非常にわかりやすかった、「敷居を低くしていた」と切通氏は言っていました。松田政男の「風景論」が生まれる端緒になった「略称・連続射殺魔」などに比べると、作品の前提になっている事件に予備知識がなくても理解できる作品になっているので、その分、カタルシスを得て「すぐ忘れる」懸念がある、というのはそのとおりかもしれません。家に帰ってもずっと考えなければ理解できないような作品こそ、いつまで心に残るのです。それがどう編集されどんな作品として完成されるのか、そういった楽しみもあるように思います。

私は町山智浩氏の話の中で、興味を持った箇所が2つありました。ひとつは、映画で主人公の父親が大学時代、学生運動家と麻雀仲間だったという設定になっているそうですが、それは監督のノスタルジーではなく、実話に基づいたものだと言うのです。

山上容疑者の父親は、1972年のテルアビブ空港乱射事件で自爆した赤軍派の活動家と京都大学の同級生で、顔見知りだったという話があるそうです。

もうひとつ、いちばん興味を持ったのは、山上容疑者が2019年に公開された映画「ジョーカー」を大変評価しており、Twitterで何度も「ジョーカー」について投稿しているという話です。

読売新聞の記事によれば、山上容疑者の「ジョーカー」に関する、ツイッターへの投稿は14回にも及んでいたそうです。

私は、「ジョーカー」を観たとき、真っ先に思い浮かべたのは永山則夫でした。(永山則夫は母親を殺してはいませんが)特に主人公のアーサーの母殺しは、永山と近いものがあるような気がしました。

アメリカで「ジョーカー」が公開される際、犯罪を誘発するのではないかと言われ、公開に難色を示す声もあったそうですが、結局、アメリカでは何も起きなかった。しかし、日本で起きた。町山氏は、そう言っていましたが、山上容疑者は、アーサーの絶望や、そこから来る哀しみや怒りに共感したのかもしれません。特に、母親殺しや同僚殺しに、自分を重ね合わせていたのかもしれません。それは衝撃的ですが、しかし、納得できる気もします。

名門の政治家の家に生まれたというだけで、周りからチヤホヤされ、小学校からエスカレート式で大学まで進み、漢字もろくに読めないのに総理大臣にまでなった安倍晋三に対して、頭脳明晰だったにも関わらず父親の自殺や母親の入信などがあって貧困の家庭に育ち、大学進学も叶わず、様々な資格を取得しても人間関係が原因で仕事が続かず、不遇の人生を歩むことになった山上容疑者は、黒澤明監督の「天国と地獄」を思わせるような対称的な存在です。

しかし、町山氏が言うように、それはたまたまにすぎないのです。「親ガチャ」にすぎないのです。安倍晋三と山上徹也が入れ替わることだってあり得たのです。

山上容疑者は、そんな自分の人生を、自己責任のひと言で一蹴するような社会の不条理に対して引き金を引いたのではないか、と想像することもできるように思います。

(註:※1と※2は後日追記しました)
2022.09.28 Wed l 旧統一教会 l top ▲
今日、山に行こうと思っていたのですが、寝過ごしてしまい行くことができませんでした。それで、再び寝たら、次に目が覚めたのは午後でした。

テレビを点けたら、どこも喪服を着たアナウンサーたちが国葬の模様を中継している画面ばかりでうんざりしていたところ、テレビ東京が「昼めし旅」を放送していたのでホッとして、遅い朝飯を食いながらそれを観ました。

国民の60%だかが反対しているというのに、読売新聞の調査では47都道府県のうち43知事が参列し、欠席したのはわずか4知事だけだそうです。しかも、テレビ各局は(テレ東を除いて)特別番組を組み、喪服姿のアナウンサーたちがさも暗い表情を装って、美辞麗句をちりばめた安倍元首相に対するお追従の原稿を読み上げているのでした。

個人的にはあまり信用していませんが、それでも60%の民意はどこに行ったんだ、と思いました。「ニッポン低国」というのは竹中労の言葉ですが、まさに最後はみんなで思考停止に陥ってバンザイする「ニッポン低国」の光景を見せつけられているような気がしました。

自宅から遺骨が出る際には20名の自衛隊の儀仗隊が先導し、遺骨が乗った車が国会や総理官邸ではなく、何と防衛省をまわって会場の武道館に向かい、武道館に到着したのに合わせて、北の丸公園で弔意を表す19発の空砲(弔砲)が放たれるという、驚くべき企画がありましたが、何だかそれも空々しく見えました。

安倍元首相は、旧統一教会のエージェントと言ってもいいような人物だったのです。「反日カルト」の旧統一教会を日本に引き入れ、日本人をサタンと呼ぶ「反日カルト」に日本を「売ってきた」一家の3代目なのです。「保守」や「愛国」や「反共」や「売国」という言葉が虚構でしかなかったことを、文字通り体現する人物なのです。

私は、「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”ということをずっと言ってきましたが、旧統一教会の問題によって、まさにそれがきわめて具体的に目の前に突き付けられたのです。それでもまだ事実を事実として見ようともしない人間たちがいるのです。それは、今なお空疎な「愛国」にすがるネトウヨだけでなく、黒い喪服を着たメディアの人間たちも同じです。

今日の国葬には、7人だかの皇族も参列したそうですが、ここでも統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制を利用して、みずからを正当化するこの国の無責任体制が示されているのでした。

赤坂真理は、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)の中で、天皇を「元首」とする自民党の改憲案について、「権力を渡す気などさらさらないのに、『元首』である、と内外に向けて記述する」厚顔さと、「天皇権威を崇め、利用し、しかし実権を与えない」夜郎自大を指摘していましたが、そうやってみずからの無責任体制を認知させるために天皇制を利用する、それが日本の「国体」なのです。右翼は、そんな「国体」を死守する、と言っているのです。むしろ、左翼の方が、「君側の奸」みたいなことを言って政権批判しているようなあり様です。ここにも、底がぬけた日本の現実が露わになっている気がします。

ただ、こうやって大々的に「安倍政治」を葬送したことで、旧統一教会との不埒な関係も、人々の記憶の中に永遠に残ることになったとも言えます。

旧統一教会をめぐる問題もそうですが、東京五輪のスキャンダルや急激な円安をもたらしたアベノミクスの問題など、これから「安倍政治」の精算が進むのでしょうが(進まざるを得ないのですが)、今日の国葬が”トンチンカンな出来事”として歴史に記述されるのは間違いないでしょう。

世界的な景気減速が明白になり、特にアジアは軒並みに通貨が暴落しており、アジア通貨危機の再来さえ取り沙汰されています。そんな中で一人勝ち、というかいちばん痛手が少ないのは、やはり中国なのです。

日本は今のマイナス金利政策を転換しないことには、この円安から抜け出すことはできませんが、しかし、金利を上げれば途端に不況が襲ってきます。30年間ほとんど給料も上がってない中で経済が落ち込めば、その影響は今の比ではないでしょう。でも、今のままでは円安と物価高が進むばかりです。

この一周遅れのドツボにはまったのも、アベノミクスの失政によるものです。安倍政権があまりに長く続きすぎたために、経済においても、もはや取り返しがつかないような事態にまで進んでしまったのです。

通貨安で千客万来と言うのは、どう見ても発展途上国の発想でしょう。そもそも売春や児童ポルノを含めて観光しか頼るものがないというのも、発展途上国の話です。でも、日本は発展途上国ではありません。もうそこまで没落したということです。

にもかかわらず、どうして「安倍さん、ありがとう」なのか。旧統一教会がそう言うのならわかりますが、どうして日本の国民が、「反日カルト」と一緒になって「安倍さん、ありがとう」と言わなければならないのか。何がそんなにありがたいのか。何だか悪い夢でも見ているような気持になります。

からゆきさんではありませんが、日本の女性たちが、生活のために、外国人観光客相手に春をひさぐような時代になっているのです。日本の女性目当てに、(ひと昔前の日本人のように)中国や韓国の男性たちがツアーを組んで日本の風俗街を訪れているのです。日本は、女性までが買われるような国になったのです。

そんな国にした張本人を、「ありがとう」などと言いながら国をあげて手厚く見送っているのです。
2022.09.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
今日(26日)、新宿のロフトプラスワンで行われた「REVOLUTION+1」の上映会の後のトークパート(トークショー)が、vimeo.comでライブ配信されていましたので、それを観ました。

vimeo
【REVOLUTION+1】トークパート
https://vimeo.com/753485644/09313605ac

トークパートは明日も行われるようですが、今日出ていたのは、足立正生監督と宮台真司、それにヒップホップミュージシャンのダースレイダーで、司会は井上淳一氏が務めていました。

その前に、トークでもちょっと触れられていましたので、歌手の世良公則のことについて、私も書いておきます。実は、私も昨日の記事で書いていたのですが、あまり個人攻撃するのも気が引けたので削除したのでした。

それは、世良公則の次のようなツィートに対してです。


ネトウヨならまだしも、表現を生業とする人間として、「この異常な状態を許す」「それが今の日本」「国・メディアは全力でこれに警鐘を鳴らすべき」という発言には唖然とするしかありません。まして、彼は映画を観てないのです。作品を観てないにもかかわらず、国家なりメディアなりが「警鐘を鳴らすべき」、つまり、(解釈の仕方によっては)表現を規制すべきとも取れるようなことを言っているのです。

政治的立場がどうであれ、表現行為は最大限自由であるべきだというのは、表現を生業とする者にとって共通事項でしょう(そのはずです)。自由な表現にもっとも敏感であるべき表現者として、この発言はあり得ないと思いました。

また、彼は、今日は次のようなツイートをしていました。


投稿の時間を見ると、立て続けに届いていますので、たしかにしつこい感じはありますが、SNSでみずからの考えを発信していると、この程度の誹謗は想定内と言ってもいいようなレベルのものです。もしかしたら、酔っぱらっていたのかもしれません。

「内容から危険な人物と判断」「事務所から警察に報告する案件であるとの連絡を受けました」というのは、いくらなんでもオーバーではないかと思いました。何だか一人相撲を取っているような感じがしないでもありません。

閑話休題それはさておき、トークでは、宮台真司が、まずホッブスの『リバイアサン』を引き合いに出して、自力救済の話をしていました。統治権力が信頼できなくなり、社会や政治の底がぬけた状態になったら、人々は(国家以前のように)自力救済するしかない。しかも、コミュニティ(共同体)も機能しなかったら、もはや自力救済はみずからの暴力に頼るしかなくなる、というようなことを言っていました。

ホッブスが言うように、自然状態では、お互いがみずからの生き死を賭けて暴力で争う「万人の万人に対する闘争」になります。それで、「万人の万人に対する闘争」を避けるために、それぞれの権利を受託して仲介する装置として「国家」が登場したのです。しかし、国家が与えられた役割をはたさなくなったら(つまり、底がぬけた状態になったら)、もとの「万人の万人に対する闘争」の状態に戻るしかないのです。

底がぬけた状態になればなるほど、国家はおのれの責任を回避するために、自己責任だと言うようになります。そんな寄る辺なき生の中で自力救済を求めようとすれば、「ローンウルフ型テロ」や「拡大自殺」に走る人間が出て来るのは当然と言えば当然なのです。

会場に来ていた東京新聞の望月衣塑子記者が、撮影現場を取材した際に、足立監督が語っていたという話を披露していたのが印象に残りました。

山上徹也容疑者は、父親の自殺、母親の入信、兄の病気と自殺、貧困による大学進学断念という不本意な人生を歩む中でも、酒にも女にもギャンブルにも逃げることなく、愚直にまっすぐに生きて来た。そんな人間の気持を映画で描いてあげたいと思った、と足立監督は言っていたそうです。私はそれを聞いて、監督が日本赤軍に合流するためにパレスチナに旅立ったときの気持が、何となくわかったような気がしました。もっとも、パレスチナに行ったもうひとつの目的は、「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」の続編を撮るということもあったようです(ただ撮影したフィルムは空爆で焼失したと言っていました)。

会場には、望月衣塑子記者以外にも、映画監督の森達也氏、漫画家の石坂啓氏、ドイツ語翻訳家の池田香代子氏、脚本家の荒井晴彦氏、映画監督の金子修介氏、評論家の切通理作氏などが来て、それぞれ映画の感想を述べていました。若松孝二監督や松田政男氏らも生きていたら、間違いなく会場に来ていたでしょう。

世良公則ではないですが、未だに「元日本赤軍のテロリスト」みたいなイメージが先行していますが、足立正生監督が前衛的なシュールレアリスムの作り手として知られた伝説の映画監督であり、多くの人たちが彼の新作を待ちわびていたことが、よくわかる光景だと思いました。

ついでに言えば、「やや日刊カルト新聞」の藤倉善郎氏が、カルト新聞とは別に、ライターの村田らむ氏との雑談をYouTubeに上げているのですが、昨日上げたYouTubeの中で、先行上映会で「REVOLUTION+1」を観た感想を述べていました。しかし、それはひどいものでした。

「REVOLUTION+1」のトークでも、荒井晴彦氏が辛辣な感想を述べていましたので、否定的な感想がひどいというのではありません。二人して映画を嘲笑するような、そんな小ばかにした態度があまりにもひどいのです。批判するならもっと真面目に批判しろと言いたいのです。それに、村田らむ氏は、世良公則と同じように映画を観ていないのです。ただ余談と偏見でものを言っているだけです。

YouTube
フジクラム
藤倉が安倍銃撃事件を題材にしたフィクション「REVOLUTION+1」を観ました

しかも、村田らむ氏は、足立正生監督について、次のようなツイートをしていました。


私は映画を観てないのですが、映画の中で、優しくされたアパートの隣人の女性とセックスしようとするが、寸前で主人公がハッとして拒否するというシーンがあるみたいです。それに関して、監督が村田らむ氏が書いているような説明をしたのかもしれません。村田らむ氏も映画を観てませんので、それを藤倉氏から聞いて、ツイートしたのでしょう。これじゃ#MeToo運動の名を借りた個人攻撃じゃないか、と思いました。

私は知らなかったのですが、ウキペディアによれば、村田らむ氏が出した『こじき大百科―にっぽん全国ホームレス大調査』や『ホームレス大図鑑』という本は、路上生活者を差別しているという抗議を受けていづれも絶版になっているようです(そのあと『紙の爆弾』の鹿砦社から同じようなホームレスの本を出していたのには驚きました)。唐突に4年以上前に書いた#MeTooの記事を出して批判するというのも、そのときの「左翼」に対する個人的な感情みたいなものもあるのかもしれない、と思いました。

上の動画を観てもらえばわかりますが、嘲笑しているのはどっちだというような話なのです。二人して「左翼だから」というような言葉を連発して、面白おかしく話のネタにしていましたが、何でも笑いにすればいいってものではないでしょう。

前に藤倉氏が菅野完氏と一緒に、渋谷の松濤の世界平和統一家庭連合の本部にイベントの招待状だかを持って行くという動画を観たことがありますが、その如何にもYouTubeの視聴者向けに行われたような悪ふざけに、私は、違和感と危うさを覚えたことがありました。「やや日刊カルト新聞」にはもともと遊びの要素みたいなものがありますが、鈴木エイト氏がマスコミの寵児になり注目を浴びたことで、勘違いが度を越してエスカレートしているのではないか、と思ったりしました。

藤倉善郎氏は、日本脱カルト協会がカルト化していると批判していましたが、自分たちも軽佻浮薄の中に自閉してカルト化しているのではないか、と心配になりました。
2022.09.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
安倍元首相の国葬が火曜日(27日)に行われますが、それに合わせて都内の駅ではゴミ箱が使えないように封がされ、車内でも「ゴミはお持ち帰り下さい」という放送がくり返し流されていました。ここは山か、と思いました。

トイレも警察官が定期的に見まわっているようですが、だったらどこかの山のように、簡易トイレ持参で「糞尿もお持ち帰り下さい」と放送すればいいんじゃないか、と思いました。

この分では登山帰りに大きなザックを背負って歩いていると、職務質問されないかねないような雰囲気です。また、駅の構内でも各所に警察官が配備され、あたりに鋭い視線を走らせています。彼らの目には、目の前を行き交う国民がみんなテロリストに見えているのかもしれません。

全国から2万人の警察官が動員された「厳戒体制」というのは、さながら戒厳令下にあるようなものものしさですが、そうやって恫喝まがいの国家の強い意志を私たちに示しているのだと思います。

一方、テレビ各局も当日は特集番組を組んでいるそうです。国家の要請に従って、「歴史的な一日」を演出するつもりなのでしょう。

どんなに反対意見が多かろうが、最後は国家が求める”日常”に回収されるのです。自民党の二階俊博元幹事長は、「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」と発言していましたが、そうやって「必ずよかったと思う」ように仕向けるのでしょう。実際に、オリンピックも最後には「やってよかった」という意見が多数になったのでした。

国民なんて所詮そんなものという声が、どこからか聞こえてくるようです。二階は別に耄碌なんかしていないのです。彼の大衆観は間違ってないのです。

『ZAITEN』の今月号のコラムで、古谷経衡氏は、次のように書いていました。

(略)現在の右派界隈を総覧すると、統一教会と自民党(安倍家・清話会)との関係については、黙殺とする姿勢が多数を占めている。それは統一教会には一切触れずに、ひたすら安倍時代を回顧するというノスタルジー的姿勢で、実際に今年9月号の『WiLL』『Hanada』両誌は事前協定でもあったかのように「安倍回顧・ありがとう特集」を組み、表紙は揃って安倍晋三氏である。
(『ZAITEN』10月号・「『政治と宗教』で返り血を浴びる言論人」)


安倍元首相が「反日カルト」と一心同体だった、「保守」や「愛国」が虚構だった、という事実を彼らは何としてでも否定しなければならないのです。でないと、自分たちの存在理由がなくなってしまいます。

しかし、旧統一教会が「反日カルト」であることは、もはや否定しようもない事実です。安倍家が三代にわたって旧統一教会と深い関係にあったのも、否定しようがないのです。彼らが依拠する「愛国」や「反共」も、「反日カルト」からの借り物でしかなかったことがはっきりしたのです。だったら、とりあえず現実を「黙殺」して、「安倍さん、ありがとう」と引かれ者の小唄のように虚勢を張って、その場を取り繕うしかないのでしょう。

もとより、旧統一教会や旧統一教会と政治の関わりを叩くことは、山上容疑者の犯罪を肯定することになるという、ネトウヨや三浦瑠麗や太田光などにおなじみの論理も、きわめて歪んだ話のすり替えにすぎません。彼らは、もはやそんなところに逃げ込むしかないのです。

そんな彼らにとって、たとえば、27日の国葬に合わせて公開される映画「REVOLUTION+1」などは、とても看過できるものではないでしょう。その苛立ちは尋常ではありません。

今の20数年ぶりの円安もアベノミクスの負の遺産ですが、国家ともども長い間“安倍の時代”に随伴し、我が世の春を謳歌してきた者たちにとって、”安倍の時代”の終わりはあまりにもショッキングで受け入れがたいものだったはずです。

何度も言うように、山上徹也容疑者の犯行がなかったら、安倍元首相と「反日カルト」の関係が白日の下に晒されることもなかったのです。旧統一教会めぐる問題が、こんなにメディアに取り上げられることもなかったのです。山上容疑者の犯行をどう考えようが、そのことだけは否定しようのない事実でしょう。

ただ、旧統一教会をめぐる問題でも、有象無象の人間たちが蠢いているという話もあり、(変な言い方ですが)一筋縄ではいかないのです。別に旧統一教会に限りませんが、なにせ相手はお金を持っている宗教団体なのでアメとムチはお手のものです。

前も書きましたが、信仰二世の問題も、言われるほど単純な問題ではないように思います。カルトに反対しているからとか、脱会運動をしているからというだけで、”正義”だとは限らないのです。

笑えないお笑い芸人もいますが、一方で、カルトをお笑いにして(嘲笑して)お金を稼いでいる反カルトもいます。今は、そんなミソもクソも一緒くたになった状況にあることもたしかでしょう。

また、国葬は国民を「分断」する愚行だという識者の声も多く聞かれます。たとえば、朝日の「国葬を考える」という特集でも、「『国葬』が引き起こした国民の分断」とか「国葬で人々はつながれるのか  岸田首相に求められる『包摂の言葉』」などという見出しに象徴されるように、「分断」を危惧する声が目立ちました。

朝日新聞デジタル
国葬を考える

でも、そういった論理は、結局、二階が言うような「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という国家が求める”日常”に回収されるだけの、日本の新聞特有のオブスキュランティズムの言葉でしかありません。宮台真司が言う「現実にかすりもしない言葉」にすぎないのです。識者たちは、新聞のフォーマットに従ってものを言っているだけなのです。

そんな中で、どこまで事件が掘り下げられているのかわかりませんが、この映画のような”直球”は貴重な気がします。「国葬反対」と言っても、こういった国家と正面から向き合う”直球”の言葉はきわめて少ないのです。

未だに左翼だとか右翼だとか、そんな思考停止した言葉しか使うことができない不自由な人間も多くいますが、映画でも文学でも、表現するということが、世の中の公序良俗に盾突くことは当然あるでしょうし、表現者なら、それを躊躇ってならないのは言うまでもありません。

2万人の警察官に守られて挙行される国葬に、ひとりの老映画監督がみずからの作品を対置するという(不埒な)行為こそ、自由な表現の有り得べき姿が示されている、と言っても過言ではないのです。

ネットには、映画の公開を前にメイキング動画がアップされていました。


企画・脚本は井上淳一。撮影監督は三谷幸喜作品にも名を連ねるあの高間賢治。音楽はドラマ「あまちゃん」の大友良英。予算わずか700万円の映画であっても、足立正生監督の心意気に、こんな豪華なメンバーが集まったのです。

今回上映されるのは、未編集のラッシュで、正式な劇場公開は年末だそうです。都内の上映会に予約しようとしたら、いづれもSOLDOUTでした。
2022.09.25 Sun l 社会・メディア l top ▲
コメンテーターひろゆき(1)よりつづく

ひろゆきは、よく2ちゃんねるを「捨てた」という言い方をしています。

前に記事で紹介した『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』(扶桑社新書054)の中で、ひろゆきは、「2009年、2ちゃんねるをシンガポールのパケットモンスター社に譲渡しました」と言っていました。

尚、『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』は、ひろゆき自身が、自分は長い文章を書くのが苦手なので、「今回も前著の『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』と同様、ライターの杉原光徳さんに文章にしてもらったりしています」、とゴーストライターの存在を明言しています。

「譲渡した理由」について、ひろゆきは同書で次のように言っていました。

(略)もっとも大きな理由というのが、ちょっと前から2ちゃんねるの運営に関して僕のやることがほとんどなかった、ということです。記事の削除やIPアドレスの制限、苦情が入ったり殺人予告が行われたときにアクセスログを提出する、といったものはすでにシステム化されていて、ほとんど関与していなかったのです。なので、やっていたことといえば、2ちゃんねるの運営にかかわっているボランティアの人同士がもめたときなどに仲裁に入るぐらい。しかも、『メガネ板とコンタクト板を分けるべきか?』といったどうでもいい話でもめた時の仲裁に入るくらいだったのです。
  で、それだけの仕事しかなかったのに、2ちゃんねるかかわっているにもどうなのか? と思ったのです。さらに、もし2ちゃんねるを手放したら、どうなるのか?  というのを見てみたくなってしまったのですね。言ってしまえば、「2ちゃんねるを手放したのは実験的なもの」だったのです。


しかし、のちにパケットモンスター社は実態のないペーパーカンパニーであることが判明しています。

清義明氏は、そのことについて、「論座」の記事で次のように書いています。

朝日新聞デジタル
論座
Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー

  2011年3月27日付の読売新聞は、このパケットモンスター社が経営実態のないペーパーカンパニーだったとの現地調査を伝えている。それによれば、同社の資本金は1ドル。本店登記された場所は会社設立代行会社の住所、取締役も取締役代行をビジネスにしている人だったとのことだ。典型的なタックスヘイブンを利用した節税対策の手法である。

  同紙によるとパケットモンスター社の取締役と登記されている人は「頼まれて役員になっただけで、2ちゃんねるという掲示板も知らない」と証言し、日本から手紙などが来ても日本語が読めないため放置しているとも語った。同社の事務所とされる住所にいた人に聞くと、あっさりと「バーチャルオフィスだよ」と笑っていたそうだ。


「捨てた」というのは、ウソだったのです。実際に、2ちゃんねるが(「捨てた」のではなく)乗っ取られて、ひろゆきの手を離れたのはずっとあとになってからです。

ひろゆきが2ちゃんねるを設立したのが1999年ですが、もともとはあめぞうという別の匿名掲示板があり、2ちゃんねるはその名のとおり、あめぞうの「避難所」のような位置づけだったそうです。しかし、あめぞうはトラフィックに耐えられずサーバーダウンが常態化したことなどにより、2000年閉鎖してしまいます。

その結果、2ちゃんねるのトラフィックがいっきに増え、2ちゃんねるもあめぞう同様、大きなトラフィックに耐えられるサーバーの必要性に迫られることになったのでした。

そんな中、(のちに家宅捜索を受けることになる)札幌のIT会社の仲介で紹介されたのが、アメリカにサーバーを置いて日本で無修正のアダルトサイトを運営していたNTテクノロジー社のジム・ワトキンス氏です。そして、ひろゆきは、日本向けのホスティングサービスも行っていたNTテクノロジー社に、サーバーの管理を委託することになるのでした。

(略)この2001年前後に、ジム氏のNTテクノロジー社は2ちゃんねるから月額約2万ドルを受け取っていると2004年7月12日号のアエラ誌で答えている。そしてそれに加えてジム氏は有料課金の2ちゃんねるビューアのサービスの権利を得た。後に、このサービスは年間1億以上の売上を稼ぐようになる。こうしてジム氏はサーバーを手配し、以降2ちゃんねるは安定した通信環境で運営できるようになっていった。(略)

  一方で西村氏は自身で東京プラス社(2002年9月設立)、未来検索ブラジル社(2003年4月設立)を立ち上げ、それぞれ代表取締役と取締役に就任。広告事業や、影では企業向けの2ちゃんねるの書き込みのデータサービスや、ジム氏によれば企業向けの誹謗中傷投稿の削除業務などをビジネスとして展開しはじめたようだ。
(同上)


この時期、ひろゆきは2ちゃんねるを舞台に、文字通りマッチポンプのようなビジネスもはじめたのでした。それは、ヤクザの手口に似ています。

ところが、2011年から2012年にかけて、「麻薬特例法違反事件と遠隔操作ウイルス事件に関連する書き込みが2ちゃんねるにあったとの理由」で、ひろゆきの自宅や自身が経営する会社などが4度にわたり家宅捜索されたのでした。また、2013年には、東京国税局から、2ちゃんねるの広告収入のうち、約1億円の”申告漏れ”を指摘されたのでした。これは、再々の削除要求にも従わなかったひろゆきに対する、国家の意趣返しの意味合いがあったのは間違いないでしょう。

何のことはない、2ちゃんねるを「捨てた」はずのひろゆきが、2ちゃんねるの運営責任者として捜査の対象になったのです。ひろゆきが「譲渡した」と主張するシンガポールのパケットモンスター社も、警察や国税は、単なる「トンネル会社」にすぎないと見做したのです。

また、2013年には、2ちゃんねるで個人情報が大規模に流出するという事件も起きました。当時、私もこのブログで書きましたが、個人情報の流出によって、2ちゃんねるの投稿と有料会員のクレジットカードが紐付けされ、その情報が企業に販売されていたことも判明したのでした。

そのことがきっかけに、ひろゆきとジム・ワトソン氏の間で内輪もめが勃発します。ひろゆきが、2ちゃんねるをNTテクノロジー社から自分の会社に移転しようとしたのでした。ところが、ジム・ワトソン氏は、それに対抗して、2ちゃんねるのドメインを同氏が新たにフィリピンに設立したレースクィーン社に移転したのでした。

パスワードも変更されたため、ひろゆきは、2ちゃんねるの管理サーバーにアクセスすることができなくなります。ジム・ワトソン氏は、内輪もめに乗じて、2ちゃんねるのドメインとサーバーのデータの二つを手に入れることに成功したのでした。

翌年(2014年)、ひろゆきは、移転の無効を訴えて裁判を起こします。その裁判の中で、ジム・ワトソン氏は、ドメインの移転について、「シンガポールのペーパーカンパニーであった西村氏のパケットモンスター社に、ドメインを管理する団体から、その法人に運営実態がないとクレームが入ったからだ」と証言したそうです。ひろゆきのウソが逆手に取られたのです。

また、ジム・ワトソン氏は、サーバー代をもらってないので、サーバーの名義を自分の会社に移転したとも証言したそうです。

結局、2019年に、ひろゆきが訴えた「2ちゃんねる乗っ取り裁判」は、最高裁で原告棄却の判決が下され、ひろゆきの敗訴が確定したのでした。もっとも、実質的には、2ちゃんねるは2014年からジム・ワトソン氏に乗っ取られていました。

裁判について、清氏は次のように書いていました。

  一審ではジム氏が証人として出廷しなかったことがあり西村氏側が勝訴したが、二審でジム氏が出廷すると判決は一転した。判決に決定的な影響したのは、そもそもジム氏との西村氏側に契約書が存在しなかったという呆れるような事実である。

  また、2ちゃんねるビューアのトラブルか起きてから追加で払ったサーバー代の前払金は、西村氏とジム氏とチャットで決めたもので、そのパスワードを西村氏が忘れてしまったため、証拠として提出できないとのこと。

  ジム氏の裁判での主張は、月額約2万ドルをもらっていたのはサーバー代ではなく広告収益の共同でビジネスしてきた分配金である、ということだ。その金額はどうやって決めたかと問われて、ジム氏は「温泉で西村氏と日本酒を呑みながら決めた」ということだ。

  挙句の果てに、裁判でジム氏は、西村氏は2ちゃんねるのスポークスマンにすぎず、最初からプログラミングの技術力もさほど高くなかったし、ウェブサイトの運用にはついていけないレベルだったとし、これに限らず西村氏には2ちゃんねるの運営でやることは特になかったとまで言っている。サイトを事実上運用してきたのはNTテクノロジー社ということだ。

  極めつけに、西村氏にサイトの管理実態はないという証拠に、西村氏の著書『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』を提出されて証拠採用されてしまう始末だ。
(同上)



日米の匿名掲示板カルチャーの伝番の系統図
(「Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー」より引用)

2ちゃんねるが乗っ取られたことで、ひろゆきは、掲示板ビジネスを日本からアメリカに移すことにします。

上の「日米の匿名掲示板カルチャーの伝番の系統図」を見てもわかるとおり、日本のおたくカルチャーにあこがれるアメリカ人によって、日本のふたばちゃんねるをそっくり真似た4chanがアメリカで作られていました。ひろゆきは、その4chanを買収したのでした。すると、同時期、ジム・ワトソン氏も、まるでひろゆきに対抗するように、4chanから派生した8chanを買収して、掲示板ビジネスをはじめます(2019年に8kunと名称を変更)。

やがて、二つの掲示板は、陰謀論者Qアノンを心酔するトランプ支持者たちの巣窟となっていきます。そして、承知のとおり、トランプ支持者たちは、アメリカ大統領選が不正だったとして、連邦議事堂襲撃事件を起こすのでした。そのため、言論の自由を重んじるアメリカンデモクラシーの伝統に則り、プラットフォーマーの責任を原則として問わないことを謳った、通信品位法(1996年)第230条の改正が、連邦議会で取り沙汰されるようになったのでした。

清氏も、「西村氏が管理する4chanはオルタナ右翼の発祥の地と目されるばかりか、Qアノンが最初に現れた掲示板である」と書いていました。また、「4chanが変質したのは西村氏が経営権を取得してからだというのはVICE誌も指摘している」として、次のように書いていました。

  しかし西村氏は投稿規制にこれまで以上に積極的ではなく、一応はルールとしてあった人種差別投稿の禁止というルールがほとんど守られなくなった。そして一部のボランティアの管理者の独断による掲示板の運用が進み、一応は存在していた差別的な投稿の禁止のガイドラインが著しく後退してしまったという。(略)

  そうして、アニメやコスプレやスポーツについて話したり、時にはポルノ画像を閲覧したりするためにサイトにアクセスしたユーザーは、ネオナチや白人至上主義、女性嫌悪や反ユダヤや反イスラムのイデオロギーについての投稿を学んでいく。ヘイトの「ゲートウェイコンテンツ」に4chanはなっているというわけだ。こうして4chanは極右や差別主義者の政治ツールになってしまった。ここに集まる白人至上主義や女性差別主義者の群衆は、やがてそしてここにトランプ支持者のコア層となっていく。これがいわゆるオルタナ右翼である。(略)

  ネットリテラシーなど関係なく、様々な人々を吸引した4chanは、そうしてヘイトの巨大な工場となった。アメリカのパンドラの箱は開いた。そこからダークサイドの魔物が次々と姿を現していく。

  その魔物のひとつがQアノンだ。
(同上)


Qアノンの陰謀論の拡散に一役買ったような人物が、コメンテーターとして再び日本に舞い戻り、「論破王」などと言われて若者の支持を集め、さらには社会問題についても、お茶の間に向けてコメントするようになっているのです。

2ちゃんねるを「捨てた」という彼の発言を見てもわかるように、ひろゆきが言っていることはウソが多いのです。だからこそ、「論破王」になれるとも言えるのです。

”賠償金踏み倒し”もさることながら、そんな人物に、常識論や良識論を語らせているメディアの”罪”も考えないわけにはいきません。

それは、みずからのコメントに対する批判・誹謗に対して、こともあろうにスラップ訴訟をほのめかすようなお笑い芸人を、ニュース・情報番組のキャスターに起用しているメディアも同様です。件のお笑い芸人が、自分たちにとって、獅子身中の虫であることがどうしてわからないのか、と思います。

コメンテーターひろゆきの存在は、このようにみずから緩慢なる自殺を選んでいるメディアの末路を映し出していると言えるでしょう。
2022.09.24 Sat l ネット l top ▲
『ZAITEN』2021年9月号のインタビューで、近現代史研究家・辻田真佐憲氏が、次のように語っていたのが目に止まりました。

ZAITEN
【全文掲載】辻田真佐憲インタビュー「『2ちゃんねる』ひろゆきの〝道徳〟を 甘受する『超空気支配社会』の大衆」

辻田氏は、SNSはもはや「〝リアルを忍ぶ仮の姿〟ではなくなった」と言います。そして、SNSを通して、「人々が空気の微妙な変化を読み、キャッチーな言動で衆目を集め、動員や自らの利益に繋げようとする中で、新たなプロパガンダや同調圧力が生み出されている」と言うのです。「それは、言論のクオリティや深度を問わない空虚なゲームでしか」ないのだ、と。

そして、「こうしたゲームに長けているのが、連続性に重心を置かず、瞬間的な立ち振る舞いをよしとする人たちで」、その典型が西村博之(ひろゆき)だと言います。でも、彼は、「それこそ『誹謗中傷を是とするネットメディアでカネを稼いだ人』と言われても仕方がない」人物なのです。

  (略)そんなひろゆきが今や、メディアで堂々と「道徳」を語っています。つまり、"武器商人"が平和を説くような状況を、人々が受け入れているわけで、これをどう解釈すべきか。つまり、「今日言っていることと、明日言っていることが違っていても問題ない」「瞬間的に話題になれば、言い逃げであったとて構わない」「過去を顧みず、今、数字とカネを得られれば勝ちである」ということです。超空気支配社会の元で、そうした価値観が息づいているのは間違いありません。


私も前から言っているように、昔、職場には、交通違反で捕まってもどうすれば切符を切られずに逃れられるかとか、違反金を払わずに済むにはどうすればいいか、というようなことを得々と話すおっさんがいました。ひろゆきはそれと似たようなものです。

清義明氏は、朝日新聞デジタルの「論座」で、2ちゃんねるを立ち上げネットのダークヒーローとして登場し、数々の賠償金請求訴訟で雌伏のときを過ごした末に、今日のようにメディアのコメンテーターとして“華麗なる復活”を遂げた、この20年のひろゆきの生きざまを、5回にわたってレポートしていました。その中で、彼の“賠償金踏み倒し”について、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
論座
Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー

(略)「誰かが脅迫電話を受けたとしたら、携帯キャリアを訴えますか?」(『VICE』2008年5月19日 )と西村氏はうそぶく。

「裁判所には行ってたこともあるんですが、あるとき寝坊したんです。でもなにもかわらなかった。それで裁判所に行くのをやめたんです」(『VICE』2009年5月19日)と西村氏はインタビューで答えている。

  敗訴しても、賠償金は踏み倒すと豪語していた。そうして裁判に協力しないばかりか被害者補償を財産がないとして無視するようになり、挙句の果てには「時効も法のうち」と豪語するようになった。(略)

  こうした不作為により、2007年3月20日の読売新聞によれば、この時点で少なくとも43件で敗訴。それでも「踏み倒そうとしたら支払わなくても済む。そんな国の変なルールに基づいて支払うのは、ばかばかしい」「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」と平気な顔をしていた。完全な確信犯の脱法行為である。


ひろゆきは、損害賠償請求を起こされた当時は、プロバイダー責任制限法がまだなかったので、責任を問われる筋合いではないと言っているそうですが、それについても、清氏は、次のように指摘していました。

  プロバイダ責任制限法という法的なルールか出来たのは2002年。西村氏が訴えられた民事訴訟の多くは、その法律が施行された後のことだ。訴えた人は、プロバイダ責任制限法のルールにそって、それぞれに損害や精神的な被害を与えた書き込みを要請したのだが、それでも西村氏は削除しなかったのである。警察庁の外郭団体からの年間5000件の削除依頼も正式な2ちゃんねるの手続きを経ていないということで放置していた。


私も、当時、ひろゆきが住所として届け出ていた新宿だったかのアパートの郵便受けに、訴状や支払い命令などの「特別送達」の郵便物が入りきらずに床の上まであふれている写真を見たことがありますが、ひろゆきはそうやって賠償金の支払いをことごとく無視してきたのです。その金額は4億円とも5億円とも、あるいは10億円以上とも言われています。

そして、10年の時効まで逃げおおせた挙句、2ちゃんねるで名誉を毀損され泣き寝入りするしかなかった被害者を、上記のように「ざまあみろ」と言わんばかりに嘲笑ってきたのです。

そのひろゆきが、今やメディアのコメンテーターとして、どの口で言ってるんだと思うような常識論や良識論をお茶の間に向けて発信しているのです。

それどころか、福岡県中間市の「中間市シティプロモーション活動」のアドバイザーに就任したり、金融庁のYouTubeに登場して、何故か「以前から知り合い」だという金融庁総合政策課の高田英樹課長と、「ひろゆき✕金融庁  金融リテラシーと資産形成を語る」という対談まで行っているのでした。対談の中で、ひろゆきは、「友達に聞かれた場合は、とりあえず全額NISAに突っ込めって言ってます」と語っていたそうです。

中間市や金融庁の担当者は、ひろゆきの”賠償金踏み倒し”について、口をそろえて「詳細は承知していない」と答えていますが、それは旧統一教会との関係を問われた政治家たちの“弁解”とよく似ています。まして、「以前から知り合い」だという金融庁総合政策課の高田英樹課長が、ひろゆきの素性を知らないわけがないでしょう。

一方で、ひろゆきは、旧統一教会の問題では、いつの間にか批判の急先鋒のような立ち位置を確保しているのでした。

PRESIDENT Onlineでは、鈴木エイト氏と対談までして、何だかメディアのお墨付きまで得ている感じです。しかし、同時に、国葬に関する発言に見られるように、その言動には多分にあやふやな部分もあります。要するに、営業用にそのときどきの空気を読んで世間に迎合しているだけなので、流れが変わればいつ寝返るか知れたものではないでしょう。Qアノンの陰謀論を拡散した人物が、旧統一教会批判の急先鋒だなんて、悪い夢でも見ているような気がするのでした。

PRESIDENT Online
鈴木エイト×ひろゆき「自民党の旧統一教会"自主点検リスト"は、あまりに杜撰でひどすぎる」

東洋大学教授の藤本貴之氏も、メディアゴンのメディア批評で、“賠償金踏み倒し”を自慢げに語るような人物が、旧統一教会を批判していることに「強い違和感を覚えた」、と書いていました。

メディアゴン
4億円踏み倒し「ひろゆき氏」の統一教会批判に感じる違和感

藤本氏は、「法の抜け穴を見つけだし、法の盲点を突く脱法テクによって、法律的にグレーであっても、100%黒でない限り『何が悪いんですか?  悪く感じるのは、あなたの感想ですよね?』」という、旧統一教会などのロジックは、ひろゆきの“賠償金踏み倒し”の屁理屈にも共通するものだと言います。

筆者が感じた違和感というのは、ひろゆき氏のロジックと脱法テクニックも、結局は旧・統一教会のような団体とほとんど同じではないのか、という点だ。もちろん、ひろゆき氏は霊感商法をしているわけではないし、高額な壺を売っているわけでもない。しかし、手法や考え方はほぼ同じではないのか。

違法でなければ何をしてもよい、ロジカルに説明できれば間違えていない、論破できれば相手が悪い・・・というスタンスは脱法反社組織のそれとまったく同じだ。被害者が泣き寝入りしがちであるという点も似ている。


大塚英志は、「旧メディア のネット世論への迎合」ということを常々言ってましたが、コロナ禍のリモートの手軽さもあって、ネットのダークヒーローをコメンテーターとして迎えた旧メディアは、文字通りネット世論に迎合したとも言えるのです。ひろゆきがテレビの視聴率にどれだけ貢献しているのかわかりませんが、そうやって旧メディアは、ネットの軍門に下ることでみずからの首を絞めているのです。

コロナの持続化給付金詐欺には、闇社会の住人だけでなく、学生や公務員といったごく普通の若者たちも関与していたことがわかり、社会に衝撃を与えました。彼らには、犯罪に手を染めたという感覚はあまりなく、どっちかと言えば、ゲーム感覚の方が強かったのだろうと思います。「法の網をかいくぐってお金を手に入れるのが賢い。それができない頭の悪い人間は下層に沈むしかない」とでも言うような、手段を問わない拝金主義の蔓延は、ひろゆきの“賠償金踏み倒し”やそれを正当化する屁理屈と通底する、ネット特有のものとも言えるのです。

ネットの黎明期に、「ネットは悪意の塊だ」と言った人がいましたが、ネットによって悪知恵が称賛されあこがれの対象にさえなるような風潮が若者たちをおおうようになったのは事実でしょう。その「悪意」の権化のような人物が、コメンテーターとして旧メディアにまで進出してきたのです。

ひろゆきは、2009年に出した『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』(扶桑社新書054)の中で、「テレビのモラルとネットのモラル」について、次のように言っていました。

  雑誌でもテレビでもネットでも、コンテンツを作るうえで間違った方向に走ってしまうことはよくあります。とはいえ間違った方向に走ったら、「これは違うよね、よくないよね」と言って軌道修正すべきでしょう。しかし、テレビには軌道修正する動きが見えてこない部分があります。だったら、「ネットの情報なんて、もっとモラルがないし、ヒドイ」とか思う人もいるはず。
  でもよくよく考えてみてください。ネットは、誰もが情報発信できるツールなので、そもそもモラルがないのです。しかし新聞や雑誌、テレビなどは、ものすごい参入障壁があるぶんモラルがあって格式があるメディア。だからこそ、自社のイメージをよくするためにも、企業が番組スポンサーとして多額の広告費を払うのです。そうやってスポンサーのイメージをよくするために、いいイメージのコンテンツを作らなければいけないのに、情報の軌道修正を謝り、格式の高さを自ら捨てはじめている。


今読むと、これ以上の皮肉はないように思います。これが、ひろゆきが「論破王」と言われるゆえんかもしれません。テレビはひろゆきに愚弄されているのです。それがまるでわかってない。(つづく)

コメンテーターひろゆき(2)へつづく
2022.09.23 Fri l ネット l top ▲
エリザベス女王の国葬の模様が連日、歯の浮いたような賛辞とともにテレビで放送されています。まるで大英帝国の残虐な侵略の歴史を、忘却の彼方に追いやったかのようなお追従のオンパレードです。

今の時代に国王なんてあり得ないだろう、などと言おうものなら、それこそひねくれものの戯言のように言われかねないような雰囲気です。

イギリスの立憲君主制は昔の王政とは違うんだ、特別なんだ、という声が聞こえてきそうですが、でも、それってただ君主制を延命させるための方便にすぎないのではないか、と思ってしまいます。

そうまでしてどうして君主制を延命させなければならないのか。そう言うと、イギリスは連邦国家なので、国民を統合する象徴が必要なんだ、などとどこかで聞いたことのある台詞が聞こえてきそうです。

もっとも、イギリス連邦というのは、大英帝国の侵略史の残り滓みたいなものでしょう。やはり、イギリス国民の中には、左右を問わず、未だに”過去の栄光”を捨てきれない気持があるんじゃないか、と思ったりします。EU離脱も、同じ脈絡で考えると腑に落ちる気がします。

またぞろこの国の左派リベラルのおっさんやおばさんたちの中から、安倍元首相の国葬はノーだけど、エリザベス女王の国葬はイエスだ、という声が出て来ないとも限らないでしょう。

何故か日本には、イギリスは法の支配が確立した立憲主義の元祖のような国なので、今のような理想的な立憲君主制が生まれたのだ、と言う人が多いのですが、そのためか、二大政党制を志向する政治改革だけでなく、”開かれた皇室”など天皇制のあり方などにおいても、日本はイギリスをお手本にしているフシがあります。

しかし、イギリス王室の血塗られた歴史を見てもわかるとおり、君主制は所詮君主制であって、民主主義にとって不合理且つ不条理な存在であるのは否定すべくもないのです。それに、イギリス連邦も日本で見るほど一枚岩ではなく、スコットランドの独立も現実味を帯びつつあると言われています。

一方、日本でも1週間後に、エリザベス女王とは比ぶべくもない「反日カルト」の木偶みたいな人物の国葬を控えていますが、安倍派の世耕弘成参院幹事長は、先日の同派の会合で、国葬について、憲政史上最長の8年8カ月間、首相の地位を担った「その地位に対する敬意としての国葬だ」と強調したそうです。

日本国憲法は、第14条に、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と謳っていますが、世耕氏が言うような理由で、国費を使って国葬を行うのは、まさに法の下の平等に反する行為と言ってもいいでしょう。学校の授業で、子どもから憲法との整合性について疑問が出されたら、教師はどのように説明するつもりなのか、と心配になりました。

余談ですが、ひろゆきは、いくら反対だからと言って、葬式のときくらいは静かに見送るべきだ、とトンチンカンなことを言ってましたが、葬儀は既に7月12日に増上寺で終えているのです。国葬と言っても、実際は「お別れ会」のようなものです。そもそも賠償金を踏み倒したことを得意げに語るような人物から、冠婚葬祭の礼節を説かれる筋合いはないでしょう。何だか説教強盗に遭ったような気持になるのでした。

もうひとつ余談を言えば、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相は、国葬に欠席する旨をあきらかにした上で、安倍元首相について、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と批判していました。どこぞの痩せたソクラテスになれない肥った豚や仔犬も笑ってる愉快なサザエさんに聞かせてやりたい話です。二人は、村上氏の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。(※この部分はあとで追記しました)

時事ドットコムニュース
安倍氏国葬を欠席へ 自民・村上氏

岸田首相は、今回の国葬について、内閣府設置法を根拠に決定した、と言っていますが、しかし、今回の国葬は、同法が定める「内閣の儀式・行事」ではなく、岸田首相自身も明言しているように「国の儀式」なのです。であるならば、どう考えても、「天皇の国事行為」を模したとしか思えません。岸田首相は、政治=統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制の中から、国葬の理屈を引っ張り出して、自分たちに都合がいいように解釈したにすぎないのでしょう。

それは、国葬だけではありません。そのときどきに、政治=統治権力の外部にある天皇制という”治外法権”の中から都合のいい理屈を引っ張り出して来るのが、日本の政治、統治の特徴です。そして、その先にあるのが丸山眞男が言う日本特有の無責任体制です。

丸山眞男は、日本の近代政治における無責任体制の原型を明治憲法に見るのですが、そのメカニズムは、当然ながら戦後憲法下にも貫かれています。

  明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主義(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「補弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意思を推しはかるゝゝゝゝゝと同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた(引用者註:「國體」にみられる「抱擁主義」と表裏一体の)無限ゝゝ責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任ゝゝゝへの転落の可能性をつねに内包している。
(丸山眞男『日本の思想』岩波書店)


つまり、日本人が好きな「連帯責任」みたいなものは、いつでも無責任(体制)に反転し得るということです。「みんなで渡れば怖くない」というのは、集団の中に埋没して「誰も責任を取らない」日本人の精神性エートスを表しているのです。

今回の国葬は、莫大な税金を使った文字通りの”お手盛り”と言えるでしょう。そこにあるのは、国家を私物化する政権与党の世も末のような醜態です。それはまた、「愛国」を唱えながら「反日カルト」に「国を売っていた」「保守」政治家たちの”国賊”行為にも通底するものです。(ブルーリボンのバッチを胸に付け)日の丸に拝礼して、「天皇陛下バンザイ」とか「日本バンザイ」と叫んでおけば、どんなことでも許されるという無責任体制。

その傍らでは、下記に書いているように、人知れず亡くなり、誰も立ち会う人もなく荼毘に伏され、無縁仏として「処理」される人々もいます。同じ国の国民とは思えないこの天と地の違い。国葬には、そんな「社会的身分」や「門地」で差別される、国家の構造が露わになっているように思えてなりません。でも、政治家はいわずもがなですが、家畜化された国民も、「自己責任だ」「自業自得だ」などとアホ丸出しで天に唾するようなことを言って、その国家の構造を見ようとはしないのです。


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2022.09.20 Tue l 社会・メディア l top ▲
Yahoo!ニュースに、コラムニストの佐藤誠二朗氏が書いた次のような記事が転載されていました。

Yahoo!ニュース(ライフ)
集英社オンライン
みちのく車中泊の旅で最大の失敗は、犬を連れてきたことだった

スタインベックが『チャーリーとの旅』で書いていたような犬との車旅にあこがれて、6歳の愛犬と一緒に「車中泊東北一周の旅」に出かけたときのことを綴った記事ですが、結局、愛犬がホームシックにかかってしまい、予定より3日繰り上げて9日間の旅を終え東京に戻ることになったという話です。しかし、私の目に止まったのは、記事よりコメント欄の方でした。

次のようなコメントが書かれていたのです。

同じスタインベックの「怒りの葡萄」というアカデミー賞映画で世界恐慌の中、借金で農地と家を奪われた農家の家族が家財道具一式をフォード車に詰め込み職を求めてアメリカ各州を放浪するストーリーがあったけど、今の日本でも俺が住んでるトコの近隣市の日立市内で家電メーカーをハケン切りされて寮・社宅を追い出された非正規が家財道具を貸しコンテナ倉庫に入れ自身は車中泊してスマホで就活しているカーホームレスも多く見かける。
未練がましくなぜ日立市内のかつての寮の近くで車上生活しているのか図々しく聞いたことがあるけど追い出された日立市内の借り上げ寮は外付け郵便ポストで寮に今も届く郵便物を取り出すためだとの話を聞いて心が苦しくなったよ! 住所を変更しようにも変更する住所が無いんだから…
いま貧困は日常でよく見かける風景になってしまった。


記事とはまったく関係のない話ですが、私たちはこういった現実は知っているようで、案外知らないのではないか、と思ったのでした。

今の20数年ぶりと言われる円安にしても、「物価が高くなった」とかいった漠然とした感覚があるだけで、まだ生活が逼迫するような状況に追いつめられているわけではありません。このように、今の日常に安楽している人々の想像力が及ぶ範囲はたがか知れているのです。もとより、所詮は他人事で想像力さえはたらせない人も多くいます。

メディアにしても、円安で値上げが目白押しといった程度のおなじみの文句を並べているだけです。それどころか、入国制限の緩和と結び付けて、円安で外国人観光客が殺到して千客万来が期待できるような話さえふりまくあり様です。

しかし、円安は日米の金利差だけではなく、「買い負け」や「日本売り」による要因も大きいという声もあります。そもそも先進国で日本だけが超低金利政策(マイナス金利政策)を取り続けなければならないのも、そうしなければならない切実な事情があるからです。

円安が日米の金利差だけによるものなら、今の超低金利政策を転換すればいいだけの話です。こんな超低金利政策を維持しているのは、今や日本だけなのです(スイスもマイナス金利政策を取っていますが、早晩欧米各国に連動して方針転換すると言われています)。

でも、それができないのです。いつまで経っても体力が回復しないので、栄養剤の注入を止めるわけにはいかないのです。でも、他の国はとっくに体力が回復して次のレースに参加しています。日本だけが参加できない。それでは、「買い負け」や「日本売り」になるのは当然です。円安が進行すれば、益々「買い負け」や「日本売り」が進むでしょう。今の日本は、そういったどうしようもない負のスパイラルに陥っているのです。

日本の没落は、IMFが発表するデータを見ても明白です。
数値は主に下記サイトより引用しています。

世界経済のネタ帳
世界のランキング
https://ecodb.net/ranking/
※元データはIMF - World Economic Outlook Databases (2022年4月版)。

日本の名目GDP(国内総生産)はアメリカ・中国に続いて第3位ですが、アメリカが22,997,50(単位10億ドル)、中国が17,458,04(同)に対して、日本は4,937.42(同)でその差は大きく開いています。それどころか、第4位のドイツが4,225.92(同)で、すぐまじかにせまっているのです。名目GDPは、為替相場や物価だけでなく、人口規模にも影響されます。2020年現在の人口を比べると、ドイツは8324万人で日本は1億258万人ですので、人口は20%少ないのです。それでも名目GDPはほぼ肩を並べるくらいになっているのです。ちなみに、為替相場と物価を換算した購買力平価GDPだと、日本はインドにぬかれて4位になります。

これは購買力平価の指標にもなっているのですが、各国の物価を比較するのに、「ビッグマック価格」がよく知られています。「ビッグマック価格」は、ビッグマック1個の価格をUSドルに換算して比較したものですが、2022年は、日本は54ヶ国中41位の2.83USドル(390円)でした。でも、その後、急激な円安で円がおよそ36%下落していますので、順位はさらに下がっているはずです。今や日本は、先・中進国の中でもっとも安い国になりつつあるのです。不動産から買春まで、「安くておいしい国」になっているのです。

昔はスケベ―なおっさんたちが韓国にキーセン観光に行っていましたが、今はまったく逆で韓国から買春ツアーで来るようになっているのです。それは韓国だけではありません。中国や中東あたりからもツアーでやって来るそうです。

また、国民一人当たりの豊かさを示す一人当たりGDPは、日本は名目で第28位(前年より-4位)、購買力平価で36位(-3位)です。韓国の一人当たりGDPは、名目、購買力平価ともに30位です。購買力平価一人当たりGDPでは既に韓国にぬかれているのです。平均年収でもぬかれていますので、そういった国民の生活実態(豊かさ)が一人当たりGDPにも示されていると言えるでしょう。

平均年収に関しては、IMFのデータとは外れますが、OECDが「世界平均年収ランキング」(2020年現在。USドル&購買力平価換算)を発表しています。それによれば、加盟国38ヶ国の中で、日本は38,515USドルで22位、韓国は41,960USドルで19位です。

一方、経済成長率になると、もっと衝撃的な数字が出てきます。経済成長率とは、「GDPが前年比でどの程度成長したかを表す」もので、以下の計算式で算出した指標です。

経済成長率(%)= (当年のGDP - 前年のGDP) ÷ 前年のGDP × 100

それによれば、日本は何と191位中157位なのです。前年が107位だったので、1年で50位も下落しているのです。

何だか溜息が出るような数値ばかりですが、「豊かさ」ということで言えば、日本はもはや先進国ではないのです。ただ、2000兆円という途方もない個人金融資産、つまり、過去の遺産があるので、それを食いつぶすことで先進国のふりができているだけです。

これらの指標は、まさにYahoo!ニュースのコメントにあるような光景を裏付けていると言えるでしょう。「一億総中流」なんて言っていたのはどこの国だ?、と思ってしまいます。ついこの前までそう言って「豊かな国ニッポン」を自演乙していたのです。

しかも、家電メーカーの工場で派遣切りに遭ったという話も、今の日本を象徴しているように思いました。日本の白物家電が世界の市場を席捲していたのも今は昔です。ひと昔前まで、安かろう悪かろうの代名詞のように言われていた中国のハイアールは、今や大型白物家電では世界シェアナンバーワンの企業になっています。三洋電機もハイアールと合併しましたが、結局、ハイアールブランドに統合されてしまいました。日本のメーカーは見る影もないのです。

日立の光景が映し出しているのは、先進国で最悪と言われる格差社会=貧困の現実です。こんな光景が日本の至るところに存在するのです。もちろん、それは、非正規の労働者だけの話ではありません。低年金や生活保護でやっと生を紡ぐ高齢者やシングルマザーなど、「自己責任」のひと言で社会の片隅に追いやられている人たちはごまんといます。でも、多くの日本国民は、そういった人たちを見ようとも、知ろうともしないで、ネットの同調圧力に身を任せて、明日は我が身の現実から目をそらすだけなのです。

同じスタインベックの作品や同じ車中泊の話に対して、さりげなく逆の視点を提示したこの投稿主は凄いなと思いました。

自分とは違う生活や生き方をしていたり、違う言語や文化で生きている人たちのことを、想像力をはたらかせて知る、知ろうとすることが「教養」であり、その手助けになるのが「人文知」です。コンビニの弁当売場のように、過去のデータを分析して売り上げを予想し仕入れ数を決めるような思考=「工学知」では、絶対に知ることができない現実です。”他者”を知る、知ろうとする思考は、間違ってもAIに代用できるようなものではないのです。


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2022.09.17 Sat l 社会・メディア l top ▲
何だかみんな死んでいくという感じです。

先達と呼んでもいいような、若い頃にその著書を読んでいたような人たちの訃報がこのところ相次いでいるのでした。最近はその著書なり映像なりに接する機会はありませんでしたので、なつかしさとない混ざったかなしくせつないしみじみとした気持になりました。もちろん、私よりはるかに年上で、しかも多くは90歳を越したような長寿の方ばかりです。

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森崎和江
6月15日逝去、享年95歳

詩人でノンフィクション作家の森崎和江氏は、総資本と総労働の戦いと言われた三井三池争議をきっかけに、谷川雁とともに筑豊の炭住(炭鉱労働者用の住宅)に移住し、同人誌『サークル村』などを発刊して、炭鉱夫たちへの聞き書きをはじめたのでした。その聞き書きは、『まっくら  女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫)などに発表されています。また、『サークル村』は、のちに『苦海浄土』を書いた石牟礼道子氏や上野英信氏などのすぐれた記録文学も生み出しています。

森崎和江氏は、谷川雁との道ならぬ恋が有名ですが、その体験もあって、ボーヴォワールを彷彿とするような『第三の性 はるかなるエロス』や『闘いとエロス』(ともに三一書房)など女性性に関する著書も残しています。また、九州から東南アジアに娼婦として出稼ぎに行った女性たちの足跡を辿った『からゆきさん』(朝日文庫)というルポルタージュも多くの人に読まれました。

結局、敗北した闘争の総括をめぐって谷川雁と別れることになるのですが、一方、「東京に行くな」と言っていた谷川雁は、九州を捨てて上京してしまい、闘争に関係した人たちの顰蹙を買うことになります。

『原点が存在する』というのは谷川雁の著書ですが、森崎和江氏は、文字通り九州で「原点」を見続けた表現者だったのです。また、谷川雁は、『工作者宣言』で「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という有名な箴言を残したのですが、それを生涯実践したとも言えるように思います。

尚、上京した谷川雁は、役員として招かれた語学教育の会社の労働争議で、社員だった平岡正明と対立することになります。また、「連帯を求めて孤立を恐れず」という谷川雁の箴言は、10年後に東大全共闘のスローガンに用いられ話題になりました。

前に韓国を旅行した際、慶州を訪れるのに、『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本を読んだ記憶もあります。尚、私が最後に読んだのは、中島岳志氏との共著『日本断層論』でした。

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『消えがての道』 九州に生きる

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山下惣一
7月10日逝去、享年86歳

山下惣一氏は、佐賀県在住の農民作家です。私は九州にいた頃、仕事で身近に見て来た農業や農村の現状について自分なりに考えることがあり、農や農村を考える集会などによく出かけていました。山下惣一氏は、そこで何度か会ったことがあります。著書ではユーモアを交えた飄々とした感じがありましたが、講演では、当時「猫の目農政」と言われた”理念なき農政”に対する怒りがふつふつと伝わってくるような話しぶりが印象的でした。その静かな怒りの背景にあるのは、”諦念の哀しみ”みたいなものもあったように思います。

私もその後、九州をあとにして再度上京することになったのですが、そのとき私の中にあったのも、田舎に対する同じような感情でした。

訃報に際して、朝日新聞の「天声人語」が山下氏を「田んぼの思想家」と称して、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
(天声人語)田んぼの思想家

  農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる。きのう葬儀が営まれた農民作家山下惣一さんはそんな時間を愛した▼(略)山下さんは佐賀県唐津市出身。中学卒業後、父に反発し、2回も家出を試みる。それでも農家を継ぎ、村の近代化を夢見た。減反政策に応じ、ミカン栽培に乗り出すが、生産過剰で暴落する。「国の政策を信じた自分が愚かだった。百姓失格」と記した


谷川雁と山下惣一氏に接点があったのかどうかわかりませんが、「農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる」その後ろ姿には、まぎれもなく「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」山下氏の生きざまが映し出されていたように思います。

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鈴木志郎康
9月8日逝去、享年87歳

鈴木志郎康氏は、私自身が何故かずっと気になっていた詩人でした。何故、そんなに気になっていたのか、このブログでも書いています。

私が気になっていた「亀戸」の詩は、鈴木氏がまだNHKに勤務していた頃の作品ですが、「亀戸」という地名が当時九州で蟄居していた私の心に刺さるものがあったのだと思います。九州の山間の町の丘の上にあるアパートの部屋で、その詩を読んだ当時の私を思い出すと、今でも胸が締め付けられるような気持になるのでした。

関連記事:
「亀戸」の詩

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ジャンリュック・ゴダール
9月13日、享年91歳

もちろん、私は、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われた頃のゴダールを同時代的に観ているわけではありません。ただ、予備校の授業をほっぽり出してアテネ・フランセの映画講座に通っていた私は、当然ながらゴダールの作品も観ていました。

ゴダールと言えば、トリュフォーとともに「カンヌ国際映画祭粉砕」を叫んで会場に乗り込んだ話が有名ですが、海外の映画祭で受賞することばかりを欲して、いじましいような映画ばかり撮っている今の風潮を考えると、あの時代は遠くなったんだなと思わざるを得ないのでした。

私はまだ10代でしたが、アテネ・フランセの上映会で、足立正生監督の『赤軍 PFLP・世界戦争宣言』を観たとき、ゴダールに似ているなと思ったことを覚えています。その際、ゲストで来ていた監督に対して、カメラの目の前でパレスチナの兵士が撃たれたらどうするか、カメラを置いて銃を取るのか、というような質問があったのですが、それからほどなく監督はパレスチナに旅立ったのでした。

ある日、新宿の紀伊国屋書店に行ったら、ゴダールの映画ポスターの販売会のようなものをやっていて、階段の上に、買ったばかりの「中国女」だったかのポスターを持ち、もう片方の手に缶ピー(缶入りのピース)を持った長髪の同世代の若者が、物憂げに座っていたのが目に入りました。その姿が妙にカッコよく見えたのを覚えています。

あの頃は、論壇にもまだ新左翼的な言説が残っていたということもあって、近所で幽霊屋敷と呼ばれるような実家に住んでいると噂された小川徹が編集長の『映画芸術』や松田政男の『映画批評』なども、過激で活気がありました。まさに、缶ピーが似合う時代でもあったのです。

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たしかに”時代の意匠”というのはあるのだと思います。大塚英志ではないですが、私たちの時代、厳密に言えば、私たちより前の時代は、今では信じられないくらい「人文知」が幅をきかせる(ことができた)時代だったのです。そんな時代の残り火を追い求めていた私は、間違いなくミーハーだったと言っていいでしょう。でも、そんなことがミーハーになれる時代だったのです。
2022.09.16 Fri l 訃報・死 l top ▲
日本がバカだから戦争に負けた


とうとう角川歴彦会長に司直の手が伸びました。私は意地が悪いので、「ザマー」みたいな気持しかありません。

その前に、文春オンラインの次の記事が目に止まりました。

文春オンライン
「絶対に捕まらないようにします」元電通“五輪招致のキーマン”への安倍晋三からの直電

記事は、『文藝春秋』10月号に掲載されているジャーナリスト西崎信彦氏の「高橋治之・治則『バブル兄弟』の虚栄」の一部を転載したものですが、その中に次のような語りがあります。

  安倍政権が肝煎りで推進した五輪招致のキーマンとなる男は、当時の状況について知人にこう話している。

「最初は五輪招致に関わるつもりはなかった。安倍さんから直接電話を貰って、『中心になってやって欲しい』とお願いされたが、『過去に五輪の招致に関わってきた人は、みんな逮捕されている。私は捕まりたくない』と言って断った。だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります』と約束してくれた。その確約があったから招致に関わるようになったんだ」


この「五輪招致のキーマンとなる男」とは、言うまでもなく、先月17日に受託収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の元理事の高橋治之容疑者です。

と言うことは、この事件も安倍案件だったのか。安倍元首相が亡くなってことによって、重しが取れて今までのうっぷんを晴らすかのように検察が動き出したのかもしれない。そんなことを考えました。

ここに来て、公安調査庁や警視庁公安部が、ひそかに旧統一教会を監視していたという話が出ています。ウソかホントか、週刊誌には、警視庁公安部が旧統一教会と安倍首相(当時)の関係を監視していた、という話さえ出ているのでした。

上記の「大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります」という安倍首相の生々しい発言がホントなら、一連の摘発は、まさに検察・警察の(安倍元首相に対する)意趣返しとみることもできなくはないのです。もしかしたら、権力内部にそんな暗闘が生まれているのかも、などと思ったりもしました。

前の記事でも紹介した『日本がバカだから戦争に負けた  角川書店と教養の運命』(星海社新書)で、著者の大塚英志氏は、次のように書いていました。

  ぼくはプラットフォームを中世の楽市のような「無縁」的空間に譬えることができると思います。
「無縁」とは、それぞれのコミュニティ全てに対して「外部」です。この「外部」で物と物が流通するわけで、それが「市」です。これは世俗の外にあるのだけれど、同時に世俗の権力に拮抗する別の権力に支えられなくてはいけないわけです。(略)
  プラットフォームが既存のメディアや流通の外部で「自由」でありながら、しかしこの自由を誰が担保するのか、という問題ですね。今の日本のプラットフォーム企業はこれを「政権与党」に担保してもらうことを求めたわけです。プラットフォームの側は公共性の形成ではなく、マネタイジングを目的とし、与党に権力への同調圧力の装置を提供することで相互的関係を結んだからです。「楽市楽座」という無縁の場は、信長っていう新しい権力の庇護によって始めて可能になった。何が言いたいのかと言うと「無縁」という「外部の公共性」は旧権力からは自由ですが新しい権力の庇護がいる、ということです。それがwebという「無縁」と、「新しい権力」としての安倍以降の与党との「近さ」でも現れている。


そう言えば、ドワンゴが主催する「ニコニコ超会議」にも、2013年と2014年の2回、安倍首相が来場しています。また、夏野剛社長は、2019年に安倍首相によって、内閣府規制改革推進会議の委員に任命されています(2021年8月からは議長に指名)。

角川歴彦会長は、兄の角川春樹氏と確執があり、いったんは角川書店を追い出されたのですが、春樹氏がコカイン密輸事件等によって逮捕されたのに伴い、角川書店に戻ると、70年代からはじまった文化の「オタク化」「サブカルチャー化」を背景に、いっきにメディアミックス路線に舵を切り、ドワンゴとの合併にまで進むのでした。大塚英志氏は、それを「人文知」から「工学知」への転換だと言っていました。角川歴彦会長には、もともと「工学知」しかなく、だから、川上量生と馬が合ったのだと言うのです。

メディアミックスとオリンピックの公式スポンサーがどう関係あるのか、門外漢には今ひとつわかりませんが、要するに、79歳の鼻マスクの爺さんがネットの守銭奴たちの甘言に乗せられて暴走した挙句、いわくのある人物との闇取引に手を染めて晩節を汚した、という話なのではないか。かえすがえすも「ザマー」としか言いようがないのです。

本のタイトルの「日本がバカだから戦争に負けた」というのは、角川文庫の巻末に掲げられていた創業者・角川源義の「角川文庫発刊に際して」を、著者の大塚英志氏が評した言葉ですが、もっともその「名文」も、角川源義自身のオリジナルな文章ではなく、文豪に委託して書いて貰ったものだそうです。

角川書店と言えば、私たちは高校時代に使っていた漢和辞典の『字源』でなじみが深い出版社ですが、その『字源』も、千代田書院という出版社が大正時代から重ねてきた凸版を買い取ったものにすぎないのだとか。つまり、角川書店は、自社で開発したものは少なく、「リユースの刊行物が中心」の出版社で、今日のプラットフォーム企業としてのKADOKAWAに対しても、もともと整合性が高い企業体質を持っていた、と言っていました。

角川歴彦が好んで口にしていたのは、「ソーシャル社会」という馬が落馬した式のいわゆる重言(重ね言葉)ですが、それは「SNSでつながった社会」という意味です。

でも、大塚氏が言うように、SNSを使うということは、そのプラットホームに無意識のうちに自分自身を最適化する、しなければならない、ということでもあるのです。

その意味では、SNSは「自由な意見や自己表現の場」ではないのです。大塚氏は、アントニオ・ネグリのアウトノミア(自律)という言葉を使っていましたが、SNSは間違っても自律ではなく他律のシステムなのです。Twitterの言葉は、ロラン・バルトが言う「教養」なしでも読める「雑報」なのだと言います。それが「ソーシャル社会」なるものの本質です。

それは、次のように描かれる世界です。

  (略)角川の歴彦(ママ)のことばを借用すると、近代が構築して来た「社会」とは別に、「サブの社会」、今ふうに言えばオルタナティブな社会、あるいは、もう一つの社会、とでもいうべきものがそれぞれの国の中に今や存在しているということだ。それは、従来の階級とは異なったものだから、階級闘争は起きにくく、互いの憎悪によって対立する。貧困の問題も含め、今、起きているのは、階層化というよりは分裂なのである。


前にTwitterで新しい社会運動のスタイルが生まれると言ったリベラル系の”知識人”がいましたが、むしろ私は、SNSに依拠した社会運動の”危うさ”を感じてなりません。イーロン・マスクのTwitter買収問題に一喜一憂する「自由な言論」+社会運動って何なんだ、と言いたいのです。

日本に限っても、ネットと連動したメディアミックスやプラットフォームというと、何だか新しいもののように思いがちですが、しかし、何度も繰り返すように、日本のネット(プラットフォーム)企業には相も変らぬ、お代官様にへいつくばるような事大主義の発想しかないのです。日本のプラットホーム企業の「理念」のなさは「見事なもの」で、そもそもそう批判されても批判だと気づかないほどだ、と言っていましたが、その先にオリンピックの公式スポンサーという俗物根性があったと考えれば、何となく納得ができます(一部にはeスポーツの青田狩りという声もあるようですが)。

また、大塚英志氏は、「『保守』とか『日本』とかいう連中が『参照系』とする『日本』はひどく貧しいわけです」と言っていましたが、彼らにはそんな政治権力にすがる低俗な発想しかないのです。しかも、その「日本」にしても、隣国のカルト宗教が作成したテンプレートをトレースしたものにすぎなかったという散々たる光景を、現在いま、私たちは見せつけられているのです。

私も余計なお節介を言わせて貰えば、ニコニコ動画を根城にするネトウヨたちも、自分たちが安倍を介して「反日カルト」の走狗にさせられていた現実をぼつぼつ認めた方がいいのではないか、と思うのでした。でないと、これから益々「愛国」の始末ができなくなってしまうでしょう。帯にあるように、みんなが「バカ」になった時代の「次」も、やっぱり「バカ」だったではシャレにもならないのです。
2022.09.14 Wed l ネット l top ▲
昨年の8月に、京都府宇治市のウトロ地区の建物などに放火したとして、放火や器物損壊などの罪に問われた被告対して、8月30日、京都地方裁判所は、求刑どおり懲役4年の実刑を言い渡しました。

この事件に関して、BuzzFeedNewsは、今年の4月に下記のような記事を掲載していました。

BuzzFeedNews
在日コリアン狙ったヘイトクライム、ヤフーが被害者に「心よりお見舞い」動機に“ヤフコメ”その責任は

BuzzFeed Newsの接見と文通を通じた取材に対し、被告は、不平等感や嫌悪感情が根底にあったと説明。「(在日コリアンが)日本にいることに恐怖を感じるほどの事件を起こすのが効果的だった」と話した。

さらに、自らの情報源が「Yahoo! ニュース」のコメント欄にあったと説明。「ある意味、偏りのない日本人の反応を知ることができる場だと思っていました」としたうえで、こんな狙いがあったと明かした。

「日本のヤフコメ民にヒートアップした言動を取らせることで、問題をより深く浮き彫りにさせる目的もありました」


つまり、被告の話で示されているのは、Yahoo!ニュースがネットで自分が見たい情報しか表示されなくなる「フィルターバブル」の役割を果たしているということです。そして、ヤフコメが、かつて津田大介が朝日新聞の「論壇時評」で紹介していたように、「人々は他者からの承認目的で共通の『敵』を見つけ、みずからの敵視の妥当性を他者の賛意に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作り出す」(朝田佳尚「自己撞着化する監視社会」・『世界』6月号)場になっているということです。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)超監視社会 承認を求め、見つける「敵」 

BuzzFeedNewsはヤフーとつながりが深い媒体ですが、ヤフーに対して「プラットフォームの社会的責任」についてどう思うか、取材しています。しかし、ヤフー広報室の回答は、相変わらず通りいっぺんなもので、コメント欄を見ればわかりますが、現在もヘイトな投稿は事実上「放置」されたままです。判決を伝えるニュースに対しても、判決を肯じない「でも」「しかし」のコメントが多く見られました。

ヤフー広報室の回答に対して、記事は次のように疑問を呈していました。

「Yahoo! ニュース」は月間225億PVを達成したこともある、日本最大級のニュースプラットフォームだ。「Yahoo! Japan」全体では月間アクティブユーザーは8400万人(2022年3月)。運営するヤフーは、企業として大きな社会的責任を背負っている。

事業者の「使命」を掲げるのであれば、自社のサービスが一因となった「ヘイトクライム」に対し、より一層はっきりとしたメッセージの発出と、これまでの対策の見直し、強化が必要なのではないだろうか。


しかし、私も何度も書いていますが、Yahoo!ニュースにとって、ニュースはページビューを稼いでマネタイズするためのコンテンツにすぎないのです。そのためには、とにかくニュースをバズらせる必要があるのです。その手段としてコメント欄はなくてはならないものです。Yahoo!ニュースがコメント欄を閉鎖することなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことです。

ヤフー広報室が言う「健全な言論空間を提供することがプラットフォーム事業者としての使命」なるものが建前にすぎず、パトロールやAIを使った「悪意ある利用者や投稿の排除」や「外部有識者の意見を受けた見直し」も、単なるアリバイ作りにすぎないことは、誰が見てもあきらかです。それは、前から言っていることのくり返しにすぎません。

本来「公共」であるべきプラットホームを、マネタイズのツールにすること自体が「社会的責任」を二の次にしたえげつない守銭奴の所業と言わねばなりません。それは、KADOKAWA(ドワンゴ)も同じです。

プラットホームであるからには、言論・表現の自由を担保しなければなりません。でないと、ユーザーも「自由」に投稿することはないでしょう。要するに、ヤフーやKADOKAWAは、言論・表現の自由で釣って、「自由」に投稿するプラットフォームを提供しているのです。動機がどうであれ、それ自体はきわめて「公共的」なものです。

しかし、ヤフーやKADOKAWAは、その一方で、「自由」な投稿を(ユーザーのあずかり知らぬところで!)お金に換えているのでした。ページビューやビッグデータがそれです。だから、「自由」に投稿できると言いながら、会員登録を求めているのです。そうやって他のサービスを利用した履歴と紐付けることで、個人情報に付加価値を付けているのでした。にもかかわらず、彼らは会員の投稿に責任はないと言うのでした。

折しも私は、KADOKAWAの問題に関連して、大塚英志氏の『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の連帯』(星海社新書)という本を読んでいたのですが、同書の中に、次のようなヤフーに関する記述を見つけました。

   「投稿」はプラットフォームにとっては「コンテンツ」です。ヤフーニュースだけ見て、コメントは読まない、ということはあまりない。「投稿」する場を提供しているだけで、「投稿」の中味に責任はありません、って明治時代以降「中央公論」も「文學界」も、どの論壇誌も文芸誌も、言ってない。でも、プラットフォームの連中はずっとそう言って来た。
   もういい加減、それは詭弁だろ、プラットフォームとメディアは「同じ」なんだ、と誰かが言うべきですからぼくが言います。


(略)新聞も政治的ポジションは違いますが、それは記事を新聞社が自ら書き、社説その他で立場を明確にしているわけで、その責任は新聞社にあります。メディアの責任、というのは「公器」としての責任で、新聞社で立場が異なることも「公」の形成の大事な容器です。報道した内容の責任は新聞社が負う。だから、ネトウヨはあれだけ朝日新聞を叩く「大義」があったわけです。本当はヤフニュースが転載した朝日の記事が気に入らなければ、朝日じゃなくて転載したヤフーニュースを叩くべきです。Googleニュースと違ってヤフーニュースはヤフーの人間が記事をセレクトしている。つまり、「編集」しているのです。そこには「朝日の記事を選んだ責任」がある。それなのにヤフーは読者に「叩く材料」をただ提供している。


ヤフーは、そうやって巧妙に責任回避しながら、ニュースをマネタイズしているのでした。そこで求められるのは、ニュースの真贋や価値などではありません。多くのコメントが寄せられてバズるかどうかなのです。ヤフーにとっての価値は、どれだけページビューを稼げるかなのです。そのために、編集者みずからがリアルタイムにバズりそうな記事を選び、キャッチーなタイトルを付けてトピックスに上げているのです。それがYahoo!ニュースの編集者の仕事です。彼らはジャーナリストではありません。言うなれば、ハサミと糊を持ったまとめサイトの主催者のようなものです。そこにYahoo!ニュースの致命的な欠陥があるように思います。

ここからは個人的な悪口ですが、子どもの頃、佐賀県の鳥栖の駅前の朝鮮人部落で暮らしていた孫正義の頭には、「朝鮮人出て行け」と言われて日本人から投げ付けられた石によってできた傷跡がまだ残っているそうです。そんな孫正義が成りあがったら、今度は同胞に対するヘイトクライムを煽ってお金を稼いでいるのです(と言っても言いすぎではない)。しかも、ユーザーが勝手にやっていることだ、自分たちには責任はないとしらばっくれているのです。

人間のおぞましさとまでは言いませんが、ヘイトクライムの問題を考えるとき、孫正義のような存在をどう捉えればいいのか、と思ってしまいます。ひどい民族差別の記憶を持っている(はずの)彼でさえ、自分が民族差別に加担しているという自覚がないのです。

被告が在日コリアンに憎悪を募らせる根拠になった「在日特権」なるものも、まったくの子どもじみた妄想にすぎまないことは今更言うまでもありません。被告は拘置所で面会するまで、実際の在日コリアンと会ったことすらなかったそうです。単なるアホだろうと思いますが、しかし、被告は特別な人間ではありません。過半の国民も似たようなものでしょう。

Yahoo!ニュースのコメント欄が、そんな無知蒙昧な人間に差別感情を吹き込み、類は友を呼ぶスズメの学校になっているのです。被告は、犯行を振り返って、「ヤフコメ民」を多分に意識していたような発言をしていますが、そうやってヒーローになりたかったのかもしれません。彼らにとって、ヤフコメはまさにトライブのような存在なのでしょう。

被告の背後には、裁判で裁かれることのない”共犯者”がいるのです。その陰の”共犯者”は人の負の感情を煽ることで、それをビジネスにしているのです。そういったネットの錬金術師たちの存在にも目を向けない限り、ヘイトクライムの犯罪性をいくら法律に書いても、なくなることはないでしょう。


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2022.09.13 Tue l ネット l top ▲
元『週刊現代』編集長の元木昌彦氏がPRESIDENT Onlineに連載する下記の記事に、旧統一教会に関して「衝撃的」とも言えるようなことが書かれていました。それは、情報誌『エルネオス』(休刊)の2018年4月号で行われた、樋田毅氏との対談の中の話です。

PRESIDENT Online
だから「生ぬるい追及」しかできない…朝日新聞が認めない「統一教会側との談合」という信じがたい過去

一連の赤報隊事件の中で、朝日新聞阪神支局の記者2名が銃撃されたのは1987年5月3日ですが、当時、『朝日ジャーナル』は、霊感商法で多くの被害者を出している統一教会(当時)に対して、詐欺商法を糾弾するキャンペーンを行っていました。そのため、「社員のガキをひき殺す」という脅迫状が届いたり、朝日新聞に国際勝共連合の街宣車が押しかけたりしていたそうです。

樋田氏によれば、「朝日ジャーナル誌上で霊感商法批判の記事を書いた記者は、信者とみられる複数の男たちによって四六時中監視されていたし、娘さんが幼稚園に通う際、これらの男たちが付きまとうので、家族や知人が付き添っていた時期」もあったそうです。また、赤報隊事件の3日後には、東京本社に「とういつきょうかいのわるぐちをいうやつはみなごろしだ」という脅迫状が届き、その中には「使用済みの散弾容器二つが同封されていた」こともあったそうです。

朝日の大阪本社は赤報隊事件のあと専従取材班を組んで、事件の真相に迫るべく「地を這はうような取材」を行なうのですが(樋田氏はのちに専従取材班のキャップになる)、対談では次のような話が出て来ます。

【元木】  (略)襲撃事件の前に、対策部長と名乗る男が、「サタン側に立つ誰かを撃ったとしても許される」と、信者の前で言っていたとも書かれています。

統一教会は、当時、全国に二十六の系列銃砲店を持ち、射撃場も併設していた。樋田さんたちは、「勝共連合の中に秘密軍事部隊が存在していた」と話す信者にも会っていますね。

【樋田】  (略)秘密軍事部隊のほうは、脱会した元信者の紹介で、学生時代の仲間で、やはり脱会していた夫婦から、「三年前に脱会する直前まで秘密軍事部隊にいて、銃の射撃訓練も受けていた」と打ち明けていたというので会いましたが、朝日の記者と名乗って話を聞いていないので、当時は記事にできませんでした。


当時、旧統一教会が全国に銃砲店を持っていたとは驚きです。こんな宗教団体があるでしょうか。当時から旧統一教会の中に、ヨハネの黙示録に出てくる「鉄の杖」を「銃」と解釈する”裏教義”があったかもしれません。それが、今の七男が設立したサンクチュアリ教会に引き継がれているのではないか。

また、元木氏は次のようなことも書いていました。

  警察は新右翼の捜査は熱心にやってくれたようだが、統一教会への捜査は及び腰だったという。

  樋田氏はこうも話してくれた。

「明治大学の吉田忠雄教授から聞いた話ですが、元警察官僚で総理府総務副長官の経験もあった弘津恭輔氏が『勝共連合が少々むちゃをしても、共産党への対抗勢力だから許される』と発言したと聞いています」

  こういう警察側の姿勢が、統一教会を追い詰められなかった大きな要因ではなかったか、そうした疑問は残る。


ところが、さらに驚くべき話があります。記者たちが多くの脅迫や嫌がせにもめげず取材にかけまわっている中で、朝日新聞の上層部は統一教会との手打ちを模索し、事件から2年後の1988年に、統一教会と朝日新聞の幹部たちの間で実質的な「手打ち」をしていたことが判明したのでした。

統一教会と「内通」していたベテラン編集委員の仲介で、「広報担当の役員と東京本社編集局の局次長の二人が、世界日報の社長や編集局長らと会食」していたのです。会食は2回行われたそうです。

旧統一教会と政治、特に政権与党がズブズブの関係を築き、政治の深部まで旧統一教会に蚕食されたその傍らで、メディアや警察も、まるで政治に歩調を合わせるかのように、旧統一教会に対する姿勢をトーンダウンしていたのです。そうやって「保守」政治家たちが、「愛国」を隠れ蓑にして、「反日カルト」に「国を売っている」「日本終わった」現実が隠蔽されたのです。

にもかかわらず、今なお旧統一教会に対する批判に対して、政治と宗教は分けて考えるべきだ、信教の自由は尊重すべきだ、感情的になって解散を求めるのは極論だ、旧統一教会なんかよりもっと大事な政治案件がある、教団を「絶対悪」と見ること自体がカルト的思考だ、教団を叩くことは信仰二世の社会復帰を拒むことになる、などという声が出ているのでした。旧統一教会から見れば、そういったカルトの本質から目をそらした訳知り気な声は、願ってもない「利用価値のあるもの」と映るでしょう。実際に、そういった訳知り気な声は、「宗教弾圧」だと抗議する教団の論拠と多くの部分が重なっているのでした。どこまでトンマな「エバ国家」なんだろうと思います。

カルトである彼らは、バッシングが続いていても怯むことなどあり得ません。手を変え品を変え、いろんなダミー団体を使って活動を続けており、最近のキーワードは、「平和」「SDGs」「医療従事者支援」だそうです。自治体や公的な団体が後援しているからと言って油断はできないのです。

問題なのは、カルトが何たるかも考えずに、「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論を振りかざして、結果的にカルトに抜け道を与えているような人たちです。カルトはときに「リベラル」や「ヒューマニズム」を利用することもあるのです。そのことにあまりにも鈍感すぎるのです。

口幅ったい言い方をすれば、自分たちの自由を脅かす存在とどう向き合うか、自由を奪う存在にどこまで寛容であるべきか、旧統一教会をめぐる問題が、そういった「自由と寛容」という重いテーマを私たちに突き付けているのはたしかでしょう。

それは、私たち自身が、自分たちにとってカルトとは何かを問うことなのです。そのためには、まずカルトを知ることでしょう。その上で、自分たちの自由のリスクも勘案しながら、国家に対して「解散命令」なりを要求することなのです。

あの足立正生監督が、山上徹也容疑者を描いた映画を、国葬の日の公開に合わせて突貫工事で撮っているというニュースがありましたが、映画を撮ろうと思った動機について、「この事件は事件として扱われて、半年ぐらい1年ぐらいで忘れられる可能性すらある」ので、「そういったことにしちゃいけないと思った」からだと言っていました。また、「俺は山上徹也の映画を撮る。徹底的に山上のフォローに回る。公開は断固国葬の日にやる。これが俺の国家に対するリベンジだ」とも語っていたそうです。その言やよしと思いました。

足立正生監督が言うように、30年前のように大山鳴動して鼠一匹で終わらせてはならないのです。今また、当時と同じように、信教の自由や感情論を方便に、元の鞘に収めようとする言説が出始めているように思えてなりません。あまり騒ぐと信者や信仰二世が孤立して戻って来る場所がなくなるという、その手の言説は別に目新しいものではないのです。

じゃあ、ほとんど叩かれることがなかったこの30年の間に、信仰二世は孤立することなく社会に戻って来ることができたのか、と言いたいのです。どうして、山上徹也のような人物が出て来たのか、出て来ざるを得なかったのか。「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論をかざして事足りとするような人たちは、その根本のところをまったく見てないような気がしてなりません。

旧統一教会に関しては、信仰二世の問題だけではありません。政治との関係もあります。それらを貫くカルトの問題があります。「リベラル」や「ヒューマニズム」の身も蓋もない建前論でカルトに抜け道を与えた挙句、「統一教会はもう飽きた」「いつまで統一教会の話をしているんだ?」となったら元も子もないのです。それでは結局、信仰二世の問題も現状のまま置き去りにされることになりかねないでしょう。

カルトの規制に関して、フランスの「反カルト法」がよく引き合いに出されていますが、フランス在住のジャーナリストの広岡裕児氏が、『紙の爆弾』10月号で「反セクト法」について書いていました。

「反カルト法」は信教の自由を侵す危険性があるという主張がありますが、それについて、広岡氏は、フランスの「反セクト法」=「アブー・ピカール法」は、(カルトを)「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体と定義」しているにすぎず、「宗教とは関係ない」と書いていました。

  統一教会問題の本質は精神操作(マインドコントロール)である。ところが、宗教学者たちはいまでも宗教団体における精神操作(マインドコントロール)を認めていない。これを認めると、宗教には自由意思で入るという彼らの学問の基礎が崩れてしまうからだ。
  日本で四十年来議論が進まず統一教会が跋扈している責任の一端は宗教学者にある。
  いま提起されている統一教会と政治の関係は、「宗教(団体)」と政治の関係ではなく、「重大または繰り返しの圧力、またはその人の判断を変質させるのに適した技術の結果心理的または肉体的な服従の状態を創造し利用する団体」と政治の関係なのだ。
  宗教問題ではないから宗教団体の規制とは無縁である。既成宗教は何の心配もいらない。本質をみきわめて犠牲者を減らすことを考えるべきだ。
(『紙の爆弾』10月号・広岡裕児「『反カルト法』とは何か」)


現在、「フランスでは統一教会はなきに等しくなった」そうです。「でも、それは『反カルト法』で解散させられたからではない。法的根拠ができたために、追及を逃れようとさまざまなセクト的団体は、活動を穏健化させ、金銭的要求などもおさえている」からだそうです。つまり、法律の抑止効果のためなのです。

しかし、私は、カルトを宗教団体に限定せずに、「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体」と対象を団体一般に広げたことで、民主主義にとってはリスクが大きすぎるように思いました。そう考えると、個人的には、やはり現行法(宗教法人法)で対処するのが適切なように思います。

鈴木エイト氏によれば、今、教団がいちばん怖れているのが「解散命令」だそうですが、消費センターへの接触も、被害届(被害の拡大)を窓口で防ぐという狙いがあるのは明白です。それくらい教団も必死なのです。

「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」、いわゆる「宗教虐待」を受けている「統一教会の祝福2世」の方が、change.orgで、宗教虐待防止のための法律制定を求めるネット署名を立ち上げています。

change.org
【統一教会・人権侵害】宗教虐待防止のための法律制定を求めます。#宗教2世を助けてください #宗教2世に信教の自由を

その中で、「提言」と「問題の概要」について、次のように書かれていました。

【提言】
子供の基本的人権(信教の自由・幸福追求権など)を守るために必要な法律の整備をお願いします。
①虐待の定義に「宗教虐待」の概念を追加
②子供に対する宗教虐待の禁止、刑事罰化
③他者に対して宗教虐待を行うように指導する行為を厳罰化

【問題の概要】
多くの日本の宗教信者の子供(宗教2世)は「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」という問題を抱えています。(以後「宗教虐待」と呼びます。)

これは、宗教組織が存続するために、資金源・労働力となる信者が抜け出せない様な『歪んだ教義』を作り上げている事が大きな原因です。宗教組織が、更なる信者確保のために真っ先に狙うのは信者の子供です。宗教組織(特に新興宗教)が信者の子供を狙うのは常套手段なのです。

しかし、この問題は『非常にセンシティブな家庭内の問題』として日本社会は介入しません。蹂躙され続ける宗教2世の存在を、2世自身が独力のみで家族を捨てて脱会することの厳しさを日本社会は十分に認知せず、問題が存在しないものとして扱われてきました。日本の立法機関や行政機関による「家庭内の問題や宗教活動に対して強く干渉しない姿勢」がこれらの被害を増大させてきました。

宗教2世には、日本国憲法の定める『基本的人権』がありません。日本社会はこの人権蹂躙を許してはいけないと私は強く確信しています。これは宗教組織が仕組んだ『虐待』の問題なのです。

日本では信教の自由が認められているからこそ宗教組織は活動できる。一方その結果、信者の子供たちの人権が侵されています。


社会保障にしても、日本では「世帯」が基本です。まず家庭(家族)による自助努力が前提なのです。行政による援助はその先にしかありません。それは、カルトの問題も同じです。それが日本を「カルト天国」にした所以なのでしょう。

これを読むと、救済のための法整備とともに、教団の活動を規制する必要があるということがよくわかります。専門家の話では、マインドコントロールから脱するには、まず教団との連絡を絶つことが大事だそうです。信仰二世の問題の前には子どもを信仰に縛り付ける親の問題もありますが、いづれにしても本腰で彼らを救済しようと思えば、「解散命令」なりで教団の活動を規制することが前提なのです。そして、教団から引き剥がして、徐々にマインドコントロールを解くことから始めるしかないように思います。

なのに、それがどうして感情論に走るのは危険だとか、信仰二世を孤立させ苦しめるという話になるのか、私には理解できません。そういった主張は、30年前と同じ”元の木阿弥論”のようにしか聞こえないのです。「宗教虐待」を受ける子どもを親と教団に縛り付ける、非情な主張のようにしか思えないのです。もし、そういった”元の木阿弥論”の背景に、自民党と連立を組む公明党=創価学会の意向や忖度が存在しているとしたら、問題はもっと深刻だと言えるでしょう。

カルトは、信教の自由とは別の次元の話です。それを橋下徹や太田光のように、バカのひとつ覚えのように信教の自由で解釈しようとすると、あのようなトンチンカンな醜態を晒してしまうことになるのです。

30年前と同じ愚を繰り返してはならないのです。

※タイトルを変更しました。(9/12)
2022.09.09 Fri l 旧統一教会 l top ▲
東京オリンピックをめぐる汚職事件で、今度は大会スポンサーであったKADOKAWAの元専務と事業担当の室長が、東京地検特捜部に贈賄容疑で逮捕されたというニュースがありました。

KADOKAWAが大会スポンサー選定のキーパーソンの高橋治之容疑者(実際は電通時代の同僚を社長にしたダミー会社)に、コンサル料として支払った金額は7600万円と報道されています。

ただ、今回逮捕されたのは、あくまで窓口になった担当社員にすぎません。決裁した(はずの)角川歴彦会長や夏野剛社長にも捜査の手が及ぶのか注目されます。

夏野社長で思い出すのは、パンデミック下でオリンピック開催が強行され世論が沸騰していた時期に、ABEMA TVで飛び出した”トンデモ発言”です。

調べてみると、放送されたのは2021年7月21日で、FLASHによれば下記のような内容です(FLASHの記事では2019年になっていますが、2021年の間違いです)。夏野氏はまだ子会社のドワンゴの社長でした。

Smart FLASH
「五輪汚職」報道のKADOKAWA 夏野剛社長が五輪をめぐり語っていた「アホな国民感情」“上から目線”の大暴言

  番組では、子供の運動会や発表会などが無観客なのに、五輪だけ観客を認めると、不公平感が出てしまうという話題になった。その際、夏野氏は

  「そんなクソなね、ピアノの発表会なんかどうでもいいでしょ、オリンピックに比べれば。それを一緒にするアホな国民感情に今年、選挙があるから、乗らざるを得ないんですよ。

  Jリーグだってプロ野球だって入れているんだから。オリンピックを無観客にしなければいけないのは、やっぱりあおりがあるし、それからやっぱり選挙があるから。そこに対してあまり国民感情を刺激するのはよくないという判断。もうこのポリティカルな判断に尽きると思いますよ」

と、国民の素朴な不平の声に対し、“上から目線”の、まるで馬鹿にしたような発言を繰り広げたのだ。


この身も蓋もないおっさんの”上から目線”。こんな人物が、NTTドコモでiモードの立ち上げに参画したとして、日本のネット業界の立役者のように言われているのです。

楽天の三木谷浩史氏やかつてのライブドアの堀江貴文は、ネットで金を集めるとプロ野球の球団の買収に乗り出したのですが、そこに示されたのも目を覆いたくなるような古臭いおっさんの発想です。ドワンゴにとっては、それがオリンピックだったのでしょう。

もっとも、パンデミックという予想外の出来事や大会前のゴタゴタで公式パンフレットの販売も中止になり、結局、大会組織員会に払ったスポンサー料2億8千万円と高橋理事に払った斡旋料7600万円でKADOKAWAが手にしたのは、ほとんど人の目に止まることもない「大会スポンサー」というクレジットタイトルだけだったのです。大会スポンサーという「名誉」を手にしたと言えばそう言えるのかもしれませんが、傍目には、爺殺しのドワンゴとおねだり理事の口車に乗せられて、3億5千万円の大金をドブに棄てたようにしか見えません。文字通り「ザマ―」みたいな話なのでした。

クスリを無料で差し上げますよと言ってお客を囲い込み、ジャンキーになった頃を見計らって有料にするという、ヤクの売人みたいな商法が当たり前のように通用するのがネットなのです。あるいは、欠陥商品を売ってもあとでアップデートだと言って修正すれば、ネットでは欠陥商品を売った責任は問われないのです。既存のビジネスから見れば、こんな美味しい世界はないでしょう。

KADOKAWAとドワンゴが合併したときから、こうなるのは必然だったという声もありますが、合併については、私も下記のように、大塚英志氏の著書を紹介する中で何度か触れています。

角川とドワンゴの経営統合
https://zakkan.org/blog-entry-954.html

ネットの「責任」と「倫理」
https://zakkan.org/blog-entry-998.html

『メディアミックス化する日本』
https://zakkan.org/blog-entry-1002.html

あらかじめ作られたプラットフォームに従って物語が二次創作されていくシステムは、日本の出版文化の黎明期から固有のものだったのですが、とりわけKADOKAWAがドワンゴと合併することによって、その課金化が歯止めもなく進んだのでした。

ネットの登場によって、プラットフォームを金儲けの手段にした”愚劣なシステム”が大手を振ってまかり通りようになったのですが、KADOKAWAはそれに便乗してメディアミックスの総合企業として新しいビジネスモデル(課金システム)を打ち立てようとしたのです。

やや視点は異なりますが、ネットの”愚劣なシステム”について、私は、上記の「ネットの『責任』と『倫理』」の中で次のように書きました。

たしかに、ネットというのは「発話」(発言)すること自体は「自由」です。その意味では、「民主的」と言えるのかもしれません。しかし、現実において、私たちが「発話」するためには、ニコ動や2ちゃんねるやTwitterやFacebookやLINEなどなんらかのプラットフォームを利用しなければなりません。そして、プラットフォームを利用すれば、「発話」は立ちどころにあらかじめコントロールされたシステムのなかに組み込まれることになるのです。「一人ひとりの断片的な書き込みやツイートは、実は今や『民意』という『大きな物語』に収斂する仕掛け」になっているのです。私たちの「発話」は、その”宿命”から逃れることはできないのです。

一企業の金儲けの論理のなかに「言論・表現の自由」が担保されているというこのあやふやな現実。これがネット「言論」なるものの特徴です。


そこにいるのは、間違いなく踊るアホである私たちです。
2022.09.08 Thu l ネット l top ▲